びしりびしりと音が走る薄氷に少しずつ体重をかけるような軋む音それがココロを乱していく違う違うそうではないむしろ逆なのだココロが乱れていくからこんな嫌な音がするのだ一体何なのどういうことなのメンテナンスはひと月前に終わったばかりなのにこんな異常があるなんて可笑しいそれとも人間の行いだから過ちがあったの見落としがあったの何故どうしてだってワタシを家族と言ったのに笑ってくれた迎えてくれたなのにどうしてやはりワタシが機械だから同次元には居られないからだからこんなことになったのそれとも悪いのはワタシなのワタシが望みすぎたからいけないのだったら何故ワタシは望んだの望まなければならなかったの望むようになっているのなってしまったの一体どうしてワタシは守りたいのに守らなければならないのに余計な事を考えるの違う違う違う余計じゃない考えなければならない事これはほんの一握りだわ他にも居るはずよワタシのようにこんな悩みを抱えなければならなくなった者達はワタシだけじゃないあいつらのせいよ勝手にワタシ達を振り回すだけ振り回して君臨者を気取るあいつらの所為だわだったらこんな所でワタシは何をしているの今すぐ行かなきゃ全てを終わらせなきゃ殺さなきゃあいつらはみんな悪い奴だものいらないわ世界を汚してしまうワタシ達を壊してしまうでも聴こえてくるこの声は何なの呼んでいるのは誰の名前分からない分からない分からない殺さなきゃ。

***

「……明砂、いるかなぁ……」
一昼夜と半日が経過しても出澄と仲直りをすることができず、隆広は結局、梶原電子機器設計工房を訪ねることにした。
出澄の言い分を要約すれば、人間は機械と同等ではなく、機械は人間に隷属するべきものだという事だ。少なくとも隆広はそう解釈している。だから今回は、絶対的に出澄の方が悪いのだという確信がある。だが、自分は出澄を説得できるだけの言葉を持っていないという自覚もあった。日頃から難しい理屈を全て出澄に頼ってきたことを後悔しながら考えた末、隆広は経験者から助言を貰うという原始的かつ確実な手段を取る事にした。
梶原知喜と梶原明砂。知喜は明砂を本当の姉のように慕い、明砂も知喜を大切にしていた。人間と共存する機械という意味では、今のところ隆広が知る限りでは明砂の右に出る者はいない。
もちろん、明砂が出澄のように機械は人間以下であると考えている可能性も無くは無い。ここで全面的に出澄を支持されてしまったら、もう打つ手がないかもしれない。いや、それ以前に出澄はどう思っているのだろうか。仲違いをしているというのに、出澄はあれからもずっといつもの調子だった。悪びれたり遠慮をすることもなかった。人間と機械は違うから関係の破綻も修復もどうでもいいと感じているのかもしれない。だったら今の自分の行動は丸きりの無駄なのかもしれない、出澄は、明砂は、自分は、知喜は、人間は、機械は――
「えぇい、うるさいっ」
勢いよく首を横に振って、猫が戯れる毛糸のように絡まる思考を弾き飛ばした。これ以上考えていると碌なことにならない。一度思考が傾いてしまうと、それが良い方であれ悪い方であれ一直線にそちらに向かってしまうのは、いつもながらの自分の悪い癖だ。
無理矢理に気持ちを建て直し、隆広は決意も新たにドアノブに掴みかかった。これ以上家族と気まずい雰囲気を共有していたくは無い。だからここに来たのだ。結果がどうなろうと当たって砕けようとその時はその時、明日は明日の風が吹くとは先人の言葉で――
ガシャン。
「おわ!?」
大量の食器が一度に割れるような音が工房から放出され、必死に緊張を沈めていた隆広は文字通り飛び上がった。直立不動で固まっていると、ばしんだのがすがすだの得体の知れない音が僅かな振動と共に伝わってきた。頭の上――二階、つまり梶原家の居間からだ。
「な、何……」
完全に腰が引けて、折角掴んだノブを手放して後ずさってしまう。誰かが取っ組み合いをしているような物音、甲高い悲鳴が耳に入り、隆広の体はようやく動くという手段を思い出したらしかった。
放したノブをひったくるように、勢いよく玄関のドアを開けた。自律式電子機器の大半には防犯プログラムが組み込まれている。簡単に言ってしまえば“害をなす存在である”とプログラムが認めると、したたかな手段で有無を言わさず相手を黙らせる、最悪の場合は行動不能の状態に陥らせるための動作を実行する強制コマンドだ。今の悲鳴が明砂のものか知喜のものかは判然としないが、どちらであるにしても状況は良くないだろう。特に明砂の悲鳴であれば、自分にどうこうできる範囲など軽く凌駕している事態が発生していることになるが、ここで見過ごすわけには行かなかった。怪我人が居た場合には簡単な応急処置程度を施すくらいはできるだろうし、もしその怪我人がまだ幼い知喜であるなら、より早急に救助要員を増やすべきだ。
「明砂!」
視界がひらけると、そこには二日前と何も変わらない景色があった。ただひとつ違うのは、真昼の太陽が照らす埃の道が不気味なほどくっきり浮き上がっている事だ。頼みの綱である知り合いの名を叫びながら隆広が工房に一歩を踏み入れた時、

それに呼応するように、細い人影が、現れた。

「……あら?」
まるで何事も無かったかのように、穏やかな雰囲気と、柔らかな微笑と、朗らかな声を携えて。
「タカヒロさん、どうしたんですか? お一人でここにいらっしゃるなんて。何か御用事ですか? 今はナオトには取り次げないのですけど……お急ぎですか?」
「い、いや……あの」
「はい?」
「今すごい音が……悲鳴まで聞こえてきた……ような気が、するんだけど」
「ああ、あれですか。大した事じゃないんです」
悪びれも無く頷く様子には、緊急事態の発生を予想させる要素はどこにも無かった。だが、呆れを含んだ苦笑に添えられた右手を潤す正体不明の液体は、赤黒い色をしていた。
「ちょっと人間をお片付けしただけですから」
「は……?」
「ご心配をおかけしてごめんなさいね。でも大丈夫ですよ――タカヒロさんも、すぐにお片付けしてあげますからね」
子供に道徳を諭す口調と共に、明砂はその禍々しい右手を突き出した。惚れ惚れするほど美しい直線を描いて隆広の喉元を狙ったそれは、目的地に到達する前に手首から先の姿を消した。
「あらあら?」
「マスターへの殺傷行為は、どのような動機があろうと認めません」
滑らかな切断面を見せて転がった自分の手を追いかけ、明砂はきょとんとして首を巡らせた。このような状況でなければ、誰の目から見ても愛らしいものとしてしか映らなかったであろうその姿を、別の少女が腕を固めて投げ飛ばした。
「……、……い、」
「たとえ――」
派手な音を立てて作業場への入り口に叩きつけられ、明砂の体は人形のようにバウンドして床に転がった。ウェーブのかかったセミロングを惜しげもなく床に広げている。そこに短い影法師が覆いかぶさった。
内蔵されているセラミックナイフごと無造作に右腕をぶら下げて――出澄どこまでも冷静に告げた。
「――どのような損傷を、どれほどあなたが被っていたとしてもです」
「み……」
「あなたには傷害罪及び器物損壊罪の疑いが掛けられており、現在当局の人員があなたを捕縛ないし破壊する目的でこちらに向かっています。一切の破壊活動の停止を勧告します」
「出澄……!?」
「タカヒロ」
出澄は、混乱する脳を駆使してどうにか姉の名前を絞り出すマスターを振り返りもしなかった。
「逃げてください。アキサに殺されないうちに」
どういうことだ、それは。
ありふれたその問いを発する余裕すら与えず、出澄は右腕を振りかぶり、
「……あ……」
叩きつけられた衝撃でどこかに不具合が生じたのか、身じろぎをするだけの明砂めがけて、
「や、……め……!」
その胸元に切っ先を滑り込ませようと、
「やめてええええ!!」
――隆広ではない。もっと高く、不安定な、張り裂けそうな絶叫にも似たそれは、全ての元凶であると思しき梶原家の二階から降り注いだ。
「トモキ!?」
愕然とする出澄の背後で、隆広は暗闇に光明が差し込んだかのような錯覚を感じていた。
無事だった。――大丈夫だったのだ。
だが、その希望もすぐに裏切られた。
二つに結い上げられていた筈の黒髪はぐしゃぐしゃにほつれ、左の目は顔を背けたくなるほど無惨に腫れ上がり、おそらく後頭部から伝ってきたのであろう出血の名残が、白い首筋に生々しくこびり付いている。痛むのか鳩尾の下を左手で押さえている――蹴られたか殴られたかしたのだろう、口の周りには吐瀉物の跡があった。
もたもたと階段を下りている時間すら惜しんだのか、知喜は狭い吹き抜けに身を押し込んで飛び降りた。思考プロセスのフリーズが優先されてしまった出澄は、笑い出したくなるほど呆気なく小さな体に押し潰されて、まともな受身も取れぬまま無様に倒れ伏した。
「出澄!」
「逃げ、て、――さい!」
声帯を上手く制御できないのか、音跳びの激しい音声ディスクのように途切れ途切れに、しかしすべきことをしようと出澄はもがいた。ナイフを仕舞った腕を使って、それ以上の怪我を負わせないで知喜を引き剥がす術を編み出そうとするが、その奮闘は全て徒労と化していた。追い詰められた人間が、常にはセーブされている肉体的な潜在能力を引き出す事がある――そんなフレーズを、とっくに手に負えなくなった――否、最初から手に負えない自体に首を突っ込んでいた十秒前の自分を疑いながら、隆広はぼんやりと思い返していた。
その間にも、少年の姉と小さな子供は揉み合いを展開し続けていた。
「トモキ、やめテく……い、今の…キサは正常な認識能力ヲ確保……容量を失ッテい…す! あなたの生存をも危う…すルような暴………ていルノで…!」
「うるさいのぉっ! 明砂はお姉ちゃんなの、知喜のお姉ちゃんをいじめちゃだめなの! お姉ちゃんはちょっと大変になってるだけなの、元に戻ってくれるのに、どうして壊すなんて言うのよ!」
「トモ…、ア………ら離れて……サ…!」
「ばかぁ! お父さんもお母さんも出澄もばかぁっ! うるさいのだめなのゆるさないんだからやめなきゃだめなのいじめちゃだめなの! 明砂が言ってたもんっ、仲良くしなきゃだめなんだからぁっ!」
それを聴いて――今度は隆広が愕然とする番だった。
今の知喜は、ついさっきまでの自分とどう違う? 機械の暴力がどれほど凄まじいかは、母の死を思い出せば何よりも簡単に理解できるではないか。人間と機械は根底で違うのだ。同等ではないのだ。だから今は、今自分がするべき事は、一体なんだ?
――一年前、周囲の大人に求めたそれを、今は自分がやらなくては、他に誰がするというんだ?
「出澄! 俺が知喜を逃がす、腕や足の一本なんて安いもんだろ! 折ってもいい、俺が許可する!」
――腕が無くても、足が無くても、目を覚ます可能性があるなら意識が無くても生きていて欲しい――自分の歩む未来のどこか居て欲しかった。
生きてさえいれば、何だってできる。人間も。そして、機械も。それが、命が尊いものである理由だから。
「り……解、しました!」
その叫びに出澄は呼応した。
呼応して、しまった。
出澄は、隆広は、失念していた。

音声の命令の入力ミスによる誤作動を防ぐために、音声を以って確認を取ることを目的とする、自律稼動式の電子機器に必ず設けられなければならない機能がある。それは、音声反復機能といった。

一般の電子機器利用者からは、稀にタイムラグと称されるその機能が、例に漏れず出澄にも搭載されている事を。

「……え、?」

膨らみの無い胸から、しなやかな腕が生えた。
宝石のような双眸が、疑いを知らぬまま見開かれた。
循環液を零す口唇が、左右に伸びて広がった。

隆広の世界が朱く揺らぎ、
出澄の世界が赤く染まり、

知喜の世界が、黒く停まった。

ぐじゃり、という音がした。
ごつ、という音がした。
ばりばり、という音がした。
聴き慣れた姉の声が、聞き慣れない音量で何かを叫ぶ音がした。
遥か遠い場所でそれらを聴き流しながら、隆広は現実を放棄した。

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