「……それにしても驚いた。ていうか、片道十分の距離の中でこんな疲労を背負ったのは初めてだ……いや、耳に入ったっつーか知った事は嬉しいんだけど仰天すると無駄に体力を消耗するというか……」
あれから一時間後、問題無しと言い渡された出澄と共に歩く梶原工房からの帰り道、隆広の足取りは二日酔いで出勤する中年のようにおぼついていなかった。しっかり伸ばされているはずの背中も何故か丸まって見え、もう午後だとは言え七時間の睡眠を取った翌日だというのに目の下に隈が幻視できそうな雰囲気の隆広は、指先でつついた瞬間にバランスを崩して風に攫われてもおかしくはなかった。
この様子は工房を出た時から現在までの五分間継続されている。脈拍や体温をなどを軽くスキャンした所、特に健康状態に異常は見られないので、これを精神的なものだと判断した出澄は、同時に途方に暮れた。外傷への応急手当ならば造作も無いが、心的事情は出澄にとって鬼門なのだ。以前にも隆広は茫然自失の状態に陥った事があり、その際には出澄が藪を突付いて蛇を出してしまい、発達した大喧嘩は一ヶ月ずっと青砥家に吹き荒れていた。同じ轍を踏みたくは無い。
迂闊に行動が起こせずひたすら困惑を抱えていると、隆広の口から零れた呟きを聴覚センサーが捕らえ、出澄は軽く安堵した。原因究明のチャンスが到来したのだ。
「アキサが何か話したのですか?」
当たり障りが無いようにと言葉の選択を慎重にしすぎて、外国語の機械翻訳のような文面になってしまう。肯定なのだか否定なのだか分からない唸り声を返答にした数秒後、隆広はようやく、会話が成立するまともな言葉を口にした。
「……明砂の設計士の事だよ。外観が梶原誠、内観がイーサン・バーバリー。で、梶原誠は梶原尚登の奥さんで、つまり出澄の内観設計士の奥さんで」
「重複する必要性はありません」
「必要必要じゃないの問題じゃないっての!」
「付属語を入れた上で正しい言葉を用いて会話を行ってください。言語処理が困難です」
「うるさいな何に驚いて良いか分からないんだよ! 明砂の内観外観の両設計士が超一流ってとこか、それともその超一流が徒歩十分の距離にいたってとこか、姉の設計士の妻ってとこか、梶原誠が女ってとこか、娘のアレルギー体質を考慮してこんな片田舎の不便すぎる土地に工房持ってるってとこか!? いや、最後の一個は見上げた根性というか家族愛というか!」
「落ち着いてください」
「おおお落ち着けるか、超有名人だぞ!? くああぁ、サイン貰いに戻るか!?」
「落ち着いてください。有名なのはカジワラ・マコトとイーサン・バーバリーであり、アキサではありません。加えて、カジワラ氏は本日モスクワで行われている学会へ出席しているため現在はカジワラ家に不在ですので、今引き返してもサインの要求及び回収は不可能です」
「分かってるけど分かんねーよああもう畜生なんなんだよ一体ー!!」
歩道に一定間隔で植えられているイチョウの木に拳を打ち付ける隆広から、彼とは他人であると判別されてもおかしくない距離へとさりげなく遠ざかる出澄。興奮・錯乱・忘我状態の人間を見る度に彼女が感じるものは、自分が機械である事の幸運だ。
「……それにしてもさ、出澄」
「はい?」
自我を取り戻した隆広に、出澄はちょこんと首を傾げた。隆広の右手はまだ街路樹に接していたが、両目は暮れなずむ空をしっかりと見上げていた。
「明砂見てて改めて思ったよ。機械ってのも、ここまで来ると人間と大して変わらないもんだよな」
「?」
「外観にクレームが付いて返品されたから、梶原設計士……奥さんの方だけど、引き取ったって明砂が言ってたよ。でもさ、超高級仕様なんだから当然としても、明砂って動き方ひとつにしたって機械じゃないみたいだよな。スムーズな動作もやり過ぎじゃないし、気配りだって下手な人間より上手いし。明砂がお茶淹れてくれたんだけど、出された饅頭も明砂の手製だったらしいし。出澄だってそうだろ? 家事任せたら俺なんかよりずっと手際もいいし、人間みたいに……その……柔らかいし、性格だってそれぞれで違うし」
「搭載型の人格が全て同一であれば、世界に何万もの内観設計士がいる意味がありませんし、そもそも商品として売り出すには不足です」
「……商品って言うなよ。いっつも言ってるだろ」
「タカヒロは以前、ワタシに対して命令を下さないという旨の発言をしています」
「そうじゃなくて!」
猛然と振り向く隆広に、出澄は首を振った。否定の意思を伝えるために。
「タカヒロは履き違えています。それは良くありません。ワタシやアキサは機械であり、タカヒロやタカヨシやトモキは人間です。人間と機械は等しくありません」
「けど、家族だろ! 俺と出澄も、明砂と知喜も!」
「それは戸籍上の処置です。電子機器が戸籍に入るという手段がなんのために作られたのかを知っていますか」
「……え? えっと……ジェレミア事件、だっけ?」
自分達の言い合いと近代世界史の問題との接点を見つけられず、しかし反射的に正解を口にする隆広。そうです、と出澄は頷く。
「自律稼動式電子機器の損壊事件件数が急増していた時期に該当する二十三年前、その七月に、所有者によってジェレミアと名付けられていた低次知性回路搭載型イヌ牡形自律式稼動電子機器を鈍器を用いて破損させた男性に関して、ジェレミアの所有者が器物損壊の罪以上の罰則を法廷に要求した事件がありました。それ以来、知性回路搭載型に限り電子機器を所有者の戸籍に入れる事が可能となり、それによって搭載型への破壊行為は傷害罪として処理されるようになりました。これが電子機器保護法発足の基となるジェレミア事件です」
「分かってるよっ。それがなんだよ」
「ワタシは、その法案は倫理的に誤ったものであると考えています」
予想もしていなかった言葉に、“弟”は呆然と“姉”の作り物めいた無表情を見つめた。出澄は、自分の姉は、今、
「……なん、て」
「音量を上げて発言してください。聞き取りが不可能です」
「今っ……なんて言ったんだよ!?」
機械然とした応答に苛立ち、隆広はほとんど叫ぶように問いただす。出澄はその激昂にも淡々として、まるで取り合っていない。その態度が、隆広の平常心をますます削り取っていく。
「ワタシは電子機器保護法は倫理的に誤ったものであると考えています。ヒトと機械の人格を等号で結ぶ事は矛盾しているからです」
「だから、それがどうしてかって訊いてるんだろ!」
「違います。タカヒロはワタシの十六秒前の発言の内容を確認――」
「いいから、答えろよ! なんでそんな事思うんだよ!? ……姉ちゃん!!」
胸倉を掴み上げんばかりの勢いで出澄に詰め寄る隆広を、出澄は遠いものを見るような視線で受け止めている。
やめろ、と隆広は非難する。口にする事ができず、心の中で非難する。やめてくれ。姉弟じゃないか。姉弟だって言ったら、頷いてくれたじゃないか。あれは嘘だったのか。俺を怒らせた事に引け目を感じて、大人しく場を流しただけだったのか。
「確かにワタシはタカヒロの姉です」
その瞬間、隆広の胸は撫で下ろされた。
次の瞬間、隆広の腕は振り下ろされた。
「しかしそれは、タカヒロの母の代理として家族になった事で生じた呼称に関する問題をクリアするための――」
乾いた音が、影の伸びる閑散とした通りに響く。
重い憤りと深い後悔を抱えて、隆広は我が家へと駆け出した。視覚デバイスを埋め込んで色彩を調節しただけの強化硝子の冷たい光が、隆広の脳裏に焼きついて離れなかった。

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