妹は、良い子だった。
何から何まで良い子だった。
気立てが良い。器量が良い。いつも他人を優先する。
誰かのために何かをして喜ばせるのが好きで、得意だった。
手先の不器用さなど、むしろ愛嬌の内に入るのだろう。
長所を数え上げても意味がない。短所さえ長所になる――私の、妹。
たった一人の大切な妹。
何日かしたらお嫁に行ってしまう、私の妹。
妹といることが――苦痛だった。
妹の方が。
姉よりも。
比べられて。
比べられたことを隠して。
比べられた痛みを殺した。
殺し続けた。
幾度と無く殺した。
繰り返し、繰り返し、殺した。
それすらも、劣等の証明のようで――苦痛に、拍車が掛かるばかりだった。
だから――もうやめよう。
自分を殺すのは、もうやめよう。
自分ばかりを殺すのでは――不公平じゃないか。
姉さん、と。
耳の奥で声が浮かぶ。
姉さん、と。
瞼の裏で笑顔が消える。
――どうして笑う。
お前ばかりが、何故笑う。
私ばかりが、何故殺される。
お前も殺されろ。
お前が私を殺し多分だけ、私もお前に殺されろ。
姉さん、と。
耳の奥で声が浮かぶ。
姉さん、と。
耳に向かって、声が言う。
姉さん、と。
怯えるように。
縋るように。
目に見たものを、必死になって否定するように。
「姉さん……」
「……どうしたの?」
傾斜。
森の中。
花園。
妹がいて、私がいる。
どうやら妹は、家を飛び出した私を迎えに来たようだ。
なるほど、風をも締め出す鬱蒼とした森には、なんとも言えない湿った匂いが立ち込めている。
枝葉に遮られて見えないが、月も雲に隠れているのだろう。
妹の腕にも、二本の傘が握られていた。
なんて良い子なのだろう。
心の内の全てを晒して叩きのめされてなお、気遣うことができるだなんて。
なんて――嫌な子なのだろう。
「迎えに……来たよ」
「……」
「もう夜中なのに、帰ってこないから……村の皆も、姉さんを探すの手伝ってくれてるの」
「……そう」
「父さんも心配してて、だから……帰ろ?」
「……あんたね」
流石に呆れた。
まるで自分に非があったから姉が怒って飛び出したと、思っているかのような口ぶりだ。
その口ぶりで、妹はまだ続けた。
「私、姉さんに何か嫌なこと、言ったんでしょう? だから、謝るから」
「……あんた」
「謝るから。だから、一緒に帰って欲しいの。私、嫌なところ直すから。もうちょっとしかないけど、 私、頑張って直すから。だから、一緒に帰ろう。もう夜だし、危ないよ……」
「……」
とんでも。ない。
とんでもなかった。
どうしてこの子は、こんなにも残酷なのだろう。
どうしてこんなにも。
私を苛立たせることが、上手なのだろうか。
「……ねえ」
我ながら気持ちの悪いくらいの猫撫で声だった。
仕方が無いことだろう。だって、勝手にこんな声が出てしまうのだから。
猫を撫でるような甘ったるい声。
寝転んだ花園のような、甘い声。
そんな声で語りかけながら、私は一歩一歩、妹に歩み寄っていく。
妹は私を、警戒しなかった。
一緒に帰ってくれるのだとでもおめでたく勘違いをしたのだろう、あからさまに安心して頬を緩めている。
「ここ、覚えてる? 私とあんたが小さい頃によく遊んだ花畑」
「……うん。覚えてる。花冠作ったり、転がって遊んだり、したよね」
「秘密の相談もした」
「うん。大きくなったら誰のお嫁さんになるか、……勝手に、決めたりもしたね」
「いつも、ここだったよね」
「そうだね」
「いつも、この花園だったよね」
「……姉さん?」
「私はいつもここで思ってた。あんたと一緒になって遊びながら思ってた」
「何を……?」
笑い合って。
手を取り合って。
仲睦まじい姉妹。
偏り過ぎた妹を見過ぎた姉の心。
二人の距離は限りなく零で、
「私はあんたに殺されているから、いつかあんたを殺してやろうって」
両腕が距離を、食い破った。
延ばして、絡ませて、覆って、絞めた。
夜闇の森にも映える、綺麗な白いうなじが、人の手によって絞められていく。
私の両手が、絞めていく。
「あぐ……!?」
拘束を緩めようと、妹の手が私の手首を掴んだ。痕が付きそうなほど握り締めて、引き離そうとする。
――ようやく、見られた。
自分のために誰かを傷つける妹の姿。
これでお前も、私と同じだ。とても――嬉しいわ、未夜。
「が……あ」
「あんたでもそんな声出すのね。変なの……蛙を捩じり上げたみたいな声」
「ど……し、て」
「どうして? 今ちゃんと言ってあげたでしょう。あんたを殺してやりたいってずっと思ってたって」
「……ね……さ……」
「……」
この期に及んで、まだ言うか。
私に殺されている最中だというのに。
どうして恨まない。
憎まない。
疑わない。
そこまでお前がきれだという証なのか。
……ぞっとする。
そんなの、人間などではない。
いっそ化け物だ。
花園のように。
あの力のように。
「……って……ね、さ……は」
「姉さんは? なぁに、未夜? 言えるようになるまで待ってあげるから言いなさい」



「は、な、に」



はなに。

花に。



「――」

手が。

何故か。

理由も分からず。
勝手に。

緩んだ。

妹は咳き込んでいる。
私は立ち竦んでいる。
花園は、夜風に凪いでいる。
花園が、夜風に凪いでいる。
風をも締め出す鬱蒼とした森の中で、花園が、ぞわぞわと揺れている。
私と花園は、敵ではないはずなのに、不気味だと思った。ただ単純に気味が悪くて、私は後ろを振り向いた。
後になって思えば、その瞬間に。
今をして考えれば、突如として。
花園は私の目の前で、捩じり上げたように立ち上がった。
「……え……はぁ……?」
空に向けた先端が細くなっていく柱があれば、こんな形をしているのだろう。
私の背よりも一丈ちょっと高い、根と茎と葉と花で編み上げられた柱だった。
『小賢しいことだ』
「え……」
それは。
聞き覚えのある声だった。
《うそつき》《うそつき》……
繰り返し、追い回される悪夢。
あの声。
枝葉を擦り合わせて作ったかのような、耳障りな声色――
『それとも、流石は神の子ということか? 憎らしいことこの上ない』
声は続く。
背筋を這い回り登ってくる不快感。
咳き込み終えた妹もそれは感じているようで、顔を歪めている。
けれどそこにあるのは異常への恐怖ではなく、異形への敵意だった。
声は言う。
嘲りも、それこそ怯えも無く、淡々と言う。
『しかし、思ったよりも気付かれるのが早かったな。撒き餌が役不足だったか? 否、違うな――役が、 足りすぎたか』

なんのことか。
意図して、考えないことに、したかった。
撒き餌。
神の子。
知らない。
私は知らない。なんだ、この変な柱は。こんな化け物、私は知らない――
『役に立たない撒き餌も、餌としての役目くらいはあるか。しかしそれは、主菜の後』
そんな声を頭の外側で聞く。
なんとなく不穏な感じを汲み取って、逸らしていた目を、逸らしていたい視線を、花園めがけて上向ける。
柱の先端が上下二つに分かれていた。
それはさながら――上顎と、下顎の、ように。
撒き餌。
神の子。
餌。
主菜。
目的地を定めて跳ぶかのように、柱が少し、たわんだ。
何とはなしに、柱の先端の、更に先を探した。
ようやく咳の終わった妹が、それでもまだ、蹲っている場所。
上顎と下顎のような柱の天辺。
今にも躍動しそうな柱の姿勢。
逃げ出せなさそうな妹の足腰。
逃げ出す?
何から?
縁談からか?
違う。
妹が苦痛だ比べられることが苦痛だ殺したいほど苦痛だころしてしまえばおあいこで折り合いがついて。
妹が死んで。
……死んでしまう。
どうして?
殺されるから死んでしまう。
誰に?
私に?
この花園に?
どうして?
「ち……」
煮えたぎっていた頭が、急速に冷えていく。
たった一人の妹。嫉ましい憎らしい妹。殺してやりたいくらい、嫌な子。
どうして殺したいなんて思った?
今までずっと一緒にいたのに。
一緒に眠って、一緒に食べて、一緒に遊んだ。
それまで一緒にいられたのに、どうして急に、いられなくなる?
妹の方が姉よりも。
今まで散々言われてきたのに、どうして急に、気にし始めた?
花園のせいなのか?
「違う……」
そうだとしても、違う。
花園のせいだとしても、私のせいだとしても。
こんなことを望んで、良いはずが無いのに――
刹那の間に、両の腕は動いていた。
延ばして、絡めて。覆うまではいかないけれど、しがみつくことはできた。
『ぐ……!?』
耳障りな、異音。
足枷になれたのか、咄嗟のことに対処できなかったのか、花園は妹へ飛び掛ることをやめた。
「逃げなさい!!」
叫ぶ。
いつまでへたり込んでいるつもりなのかは知らないが、いつまでも動かなければ身を挺した意味も無くなる だろう。
「姉さ……!」
「人を呼んで! 早く!」
「でも」
「さっさとしなさい!!」
我ながら滑稽だった。
さっきまでは殺したいほど憎んでおいて首まで絞めておきながら、手の平を返して逃がそうとしている。
けれどこれは、妹の安全を図ると同時に、自分の保身もそれなりに考えてはいることになるのだろう。
……それでいいのかもしれない。
醜かろうが何だろうが、結果として自分を妹を守ることになるのなら。
『憎くはないのか?』
小娘一人など恐るるには足りないのだろう。花園の柱は取り乱しもしない。
『妹さえいなければ、お前は日々を気兼ねなく過ごせていただろう。誰に憚ることも、肩身の狭い思いを することもなく……だからお前は憎んでいたのではないのか?』
それを認めるのは、
「……ええ」
痛かった。
苦しくて、痛かった。
妹といるのが、苦痛だった。
『一度だけ、許してやろう』
猫を撫でるような甘ったるい声。
寝転んだ花園のような、甘い声。
けれどそれは――惹かれてはならない甘さだ。
『お前に妹を殺させてやろう。そうすれば許してやる』
「許す……何を、許すの?」
『こうしてお前が楯突いていることを』
「……」
『……』
声を出すことすら馬鹿馬鹿しかった。
手近な花を茎ごと引き千切ると、筆舌に尽くしがたい、罅割れた空気が震える音が森に響き渡った。地面が 震える。あちこちの木から葉が落ちる。
私も地面に投げ出されて少し転がって、唐突に思い出した。
森の花園。
その足元は、緩やかな――傾斜。
あまり揺さぶられては土砂が崩れてしまうかもしれない。
『……餌の分際で……!』
「私は、」
認めよう。
私はあの子に、
「嫉妬した」
間違えようも無く、嫉妬した。今もまだ、している。
「あの子ばっかりちやほやされて、あの子ばっかり良い子でいられて、子どもの頃からずっと嫉ましかった。 でも、殺すなんて駄目」
『お前は殺したいと願ったではないか!!』
もう一度、振動。
風に圧されて、直しかけていた態勢が崩れた先は草むらだった。
花園が立ち上がってしまっても、そこにはまだ、別のものがあった。
柔らかくて暖かいもの。
「あの子を殺してやりたかった。それが私の元からの願いでも、お前のせいで湧いた願いでも、私は あの子を殺したいと願った……でもそれは、そんなことをしたら駄目なんだ。あの子はもうすぐお嫁に行くし、 いくら嫉妬したって、私は」
花冠ひとつ、押し花ひとつ作れない妹。
それは私も同じことなのに。
あの子ばかりが幸せなのだと思っていた。
自分が幸せであればあるほど、他人に気を遣うあの子を羨んで。
あんな損な子――いなくなったって、嬉しくもない。
「私はあの子の姉さんなんだから、お前みたいな化け物に、あの子を喰わせてやるわけにいかないのよ」
仲の良い家族。
仲の良い姉妹。
寝食を共にして、悲喜を分かち合ってきた。
それがもし私の我慢の上に築かれた関係であっても、今更そう簡単に捨てられるほど、軽いものなんかじゃ ないのだから。
私が思い通りに行かないことに業を煮やしたのか、花園は一層大きく顎を広げた。
……そこに至って、ほんの少しだけ後悔した。
私も一緒に逃げていればよかった。
妹を守りながら自分のことも守って逃げれば、死ぬことなんてなかったろうに。
こんなことをしなくても、妹は絶対に、こんな私を許してくれただろうに。
これで私は、死ぬのか。
妹に投げ付けた着物。まだ仕上げてもやれていないのに……?
轟、と空気が張り裂けそうなほどに震えた。
目を瞑る。
雨粒の弾けた瞼の裏には、白無垢を纏う妹を描いた。




NEXT