妹の風邪が伝染ったのか、翌日は私が熱を出した。 人に伝染して治すっていうのは本当なんだねと茶化すと、どうやらそれが悪影響になったらしく、 おろおろしていた妹は一層おろおろしてしまい、布団に横たわる私に心配そうにちゃんと寝てなきゃ 駄目だよと繰り返しながら、父に慰められて部屋の外に出て行った。 心配しないでいいからと私に言い置いた父は、けれど信用できない。 性格は好いのだが、あれで意外と良い性格なので、慰めるつもりが揚げ足を取ってからかいすぎて、 逆に怒りを買ってしまう人なのだ。 「……まったく」 ひとり、ごちた。 出て行く瞬間まで、妹の両手は手持ち無沙汰を示すようにうずうずと動き、喉は何かを言い出したそうに 痙攣のように動いていた。 こんなことで、いちいちあの力を使われてはたまったものじゃない。 心かもしれないし、 命かもしれない。 何の代償も無いかもしれない。 少なくとも、妹の何かを削るかもしれないことを私が推奨するのだけは嫌だった。 今この時間を犠牲にしているなら、せめて長生きして欲しい。そうすればあの子だって、いつかは、 自分の幸せを見つけようと思いついてくれるかもしれない。 それを本人に言えば、誰かの役に立てる今は幸せだよと、言うのかもしれないけれど。 少し不愉快になったので、眠ってしまうことにした。少し横になるだけのつもりだったが、こんなことを 考え出すとは、それなりに参っているらしい。 布団の中で寝返りを打ってみた。質が良いとはお世辞にも言えない枕がじゃりじゃりと音を立てる。 新しい枕が欲しいと思いながら、なんとなく薄目を開けてみた。 昨日着て、今日も着ようと出しておいた着物が壁に掛けてあった。それから、 ひらりと、何かが床に落ちた。 「……?」 目を細めてみても、それが何だかは分からなかった。 目に見えるほどのごみが部屋に落ちているのが気に食わない。私は、そんな性格だった。 だるい身体を四つん這いにして、それに近づいていく。 花弁だった。 ……昨日の、花園を思い出した。 「……」 ついでに、今朝の寝覚めが悪かったことも思い出した。 私は花園を走っている。 誰かに追いかけられている。 振り返らないので誰かは分からないし、足音もなかったから老若男女かも定かではなかった。 私を追いかけているのは、声。 うそつき、うそつきと、雲のように漂う、蜘蛛のように地を這う、そんな声が、花と化して足に絡み付き、 私は地の中へ、引きずり込まれそうになる……と、いう悪夢を見た。 いくらなんでも気にしすぎだ。我ながらそう思う。 頭を振り、溜息をひとつ。 花弁を拾って、屑篭まで辿り着き、ひらひらと手を振った。 ひらひら。 ひらひらひらひら。 「……ん?」 いつまで経っても花弁が落ちてこない。 手を返して見ると、そこにはもうないのに、屑篭を覗き込んでも見当たらなかった。 「……?」 落としたのだろうかと見渡す。板張りの床のどこにも、花弁は見当たらなかった。 白昼夢……というのだろうか。 熱で朦朧とした頭で結論を出すと、私は再び布団に潜り込んだ。 一眠りして、何もかも忘れようと思った。 一眠りすれば何もかも忘れられると、思っていた。 次に目が覚めたとき、私は勿論部屋にいた。 熱は下がったようだったし、今朝は殆ど感じられなかった空腹も戻っていた。 けれど寝覚めは、今朝よりもなお酷く、最悪だった。 嫌な夢を、見た。 さっきと同じ夢を、一層はっきりと見た。 追ってくる声。 うそつきと呼ぶ声。 音が。 ざわざわと、犇く音。 花園が、私を呼びながら、私を追ってくる。 衣擦れならぬ花擦れとでも表現するべき、耳に障る音。 その音が声になっているかのように、私を追ってくる。 森の中を、どこまでも。 そして、夢の外までも。 幼い頃から親しんできた花園が、私の足を掴んで――這い登って。耳元で呼ぶのだ。 「うそつき」 と―― 「……っ!?」 妹の声で、 私を呼び、 それで、 背後を、振り向いた。 妹がいた。 「って、誰が?」 きょとん、と傾いだ首。 ぱちくり、と開いた目。 不思議だからという理由で疑問するように、純粋に、妹は私に問うていた。 「……未夜っ、……いきなりそんなとこから声をかけないで、驚いたでしょ」 「ごめんごめん。起きたと思ったらぼーっとして、なんかブツブツ言ってるんだもん。気になっちゃって」 「ブツブツって……」 「うそつきって言ってた。ねぇ、それ何のこと? 誰?」 「寝ぼけて、夢の続きを見てたのよ」 「もう起きたのに! 変なの」 クスクス笑いながら、妹は側にあったらしい桶の水に手ぬぐいを突っ込んだ。引き上げて、絞る。水滴が 桶に滴るが、差し出された手ぬぐいは、病人の額に乗せるには水を含みすぎていた。 妹は本当に、力仕事に向いていなさ過ぎると実感した。 「未夜、私はもういいから。父さんの方を見てきてあげて」 「父さんなら大丈夫よ。さっきから村長と話してるの。……相談事みたい」 何の、とは言わず、妹は口を閉ざした。 父は目が見えない。畑仕事もできなければ、壊れたものの修理もできない。 その代わり、知恵が働く。 それを買われて、この村では知恵袋のような立ち位置にいる。元々、村長とは幼い頃から竹馬の友という 関係だったそうだ。 私達姉妹のことも、何くれと面倒を見てくれる。 「……」 「姉さん、どこに行くの?」 「ちょっと、散歩。変な夢見ちゃったし、気晴らしにね」 「駄目よ、病人は寝てなきゃ」 「大丈夫だから」 「だって……でも、まだ熱が」 「こんなのは病気って言わないよ」 その一言で。 妹は、簡単に黙った。 手ぬぐいから滲んだ水に手を濡らして立ち尽くす妹を通り過ぎて、戸口へと向かった。 確かめたかったのかもしれないし、 文句を言いたかったのかもしれない。 村の外へと続く坂道を、寝巻きのまま、登っていった。 木と草に囲まれ、花に覆われた緩やかな斜面。 ごろごろと転がってははしゃぎ、押し花をしようと花を摘んでは失敗した。 姉妹共、不器用だった。 いつ草鞋を作ってもどれだけ着物を縫っても、私は相変わらず歪に仕上げてしまうし、作り方を 覚え始めている妹にしても、文字通り汗水を垂らして縄と布の塊に埋もれる始末だ。 それでも、次こそは、次こそはと無駄な努力を重ねて、ついに私達は、諦めた。 つまんないという、負け惜しみを最後に。 最初から、押し花などしたところで飾る場所もなかったのだから、とも。 花冠を作ろうとしたときもあった。 四苦八苦して、ようやくそれらしき形が出来上がったときには、彩を失って萎れた、綺麗に出来ていたかも しれないけれど結果的には汚いだけの花冠、になっていた。 そんな思い出のある、花園。 まだ村の外のどこにも、妹の噂が立っていなかった頃。 平穏だった村の片隅。 思い出の場所。 平穏な、ただひたすら優しくて心地の良い、思い出が。 「私に、何の恨みがあるの……?」 どうして、私の心を脅かすのだろう。 「私が何をしたって言うの? ……それとも、あんた達じゃないの?」 私を、うそつきと。 何故そんなことを言うのだろう? 昨日ここで、妹の為に泣いたことを、嘲笑っているのだろうか? そんな高尚なことをお前が思うものかとでも? 答えなど返って来るはずがない。 これはただの、独り言。 私は暫く、独り言に誰かが応えるかと待って――けれど、ただ徒労を積んで。 踵を返すことにした。 ざわりと風を孕んで、花園が翻った。 うそつきの私を追い駈ける花園の夢と、それは、同じ音がした。 まるで何かの暗示のように、それこそ妹のお告げか何かのように、それからというもの、私は毎晩 あの夢を見るようになった。 毎晩。 正確には、横になるたびに。目を閉じるたびに。意識が睡魔に渡るたびに、私は、あの夢を見る。 《うそつき》。 《うそつき》、 《うそつき》――。 いつしか花園の声は、葉の擦れる音から生まれる幻聴じみたものではなく、妹の声へと変わっていった。 これを、悪夢と云わずして、何だと云う? 「……」 日課の水汲みは、行きも帰りも足が遅くなっていった。 行く時は、寝不足による疲労。 帰る時は、妹に対する気後れ。 妹も私も、何をしたわけでもないのに。 私と妹の関係が、少しずつ壊れ始めている気もした。 妹は私を気にかけて、私を見かけるたびに不安そうな顔をしている。おはようも、おやすみも、窺うように 言うのだ。 きっと、非は私にあるのだろう。 無意識の内に邪険にしたり――あるいは、怯えたりしているのかもしれない。 井戸から引き上げると、桶はじゃぷんと音を立てた。 「……ふ……」 憂鬱だった。 これから帰らなければならないのだ。妹のいる、我が家へ。 「……もし」 そんな時に、声を掛けられたら。 「こちらの村に予言の神子と呼ばれる娘がいるとのことだが」 そんな風に、妹のことを言われたら。 抑えなんて――利かせる必要が、なくなってしまうじゃないか。 怒鳴りつけようとして、 今回の尋ね人は、やけに立派な出で立ちをしていることに気が付いた。 男だった。 上背があった。 風格があった。 威嚇されているような気がして、一歩、下がった。 桶が音を立てて着物が飛沫を浴びたが、男に隠れて見えなかったその背後には、何人もの人と、 一台の車が見えた。 大名でも連れてきたようでいて――その中は、ひょっとして空なんじゃないかと、なんとなく思った。 「……妹が……妹に、どういった……」 「姉御か。ならば話は早い。お訪ねしたのは他でもない、」 予想は当たった。 男は言った。 「妹御を、我が主君が迎えたいと仰せである」 |