- 花陰 -


妹が生まれてからというもの、この村に不幸なものなど誰一人としていなくなった。
それはただ、妹が生まれた時期が、私達の周囲の人々の暮らしが上向き始めた時期と重なったという 意味ではない。
妹は、特別だった。
嵐よ止めと叫べば、荒れ果てた夜にはたちまち星空が昇った。
旱魃の年、雨が降ればいいと呟けば、次の瞬間からまる二日、桶を逆さにしたような雨が降った。
肺病に侵された近所の子どもを見舞えば(その時に妹が何を望んだかは知らないが)、一週間後には、 その子はもうケロリと治っていた。
いつしか、冗談半分に呼ばれていた“神子”の綽名が、そのまま余所の集落へと渡り、この寒村にもちょくちょく 人が訪れるようになった。
村の皆は迷惑がっていたけれど、妹は、そんな人達をいつだって笑って受け入れた。
「困っている人がいるのだし、私にはできることがあるのだから、力になりたいと思うの」
“お告げ”や“言霊”を見ず知らずの人間に授けた後は、
「お幸せに」
と村から見送った。
……そして、
ようやく一人になった夜、深い溜息と思い両肩を、落とす。
妹は、そんな子だった。
私は、そんな子にしてあげられることを何も思いつけないでいた。
ただ黙って、寄り添って、肩を抱くことくらいしかできないでいた。
そんな私に頭を預けて、妹は安らいだように目を閉じていた。
覚えていないほど幼い頃に母親を亡くし、目の見えない父親に育てられてきた。
私達は、そんな姉妹だった。



「もし、お姉さん」
声を掛けられたのは、村の外れだった。
男と、その腕に抱えられた、おそらく男の子どもだろう。どちらも酷くやつれた二人連れ。
私達の村は井戸がひとつしかない。それが村外れの斜面。村に出入りする者が必ず通る道に面しているので、 こういうことは時折あった。
妹のために水を汲んでいるとき、妹にたかろうとする猩々蝿に絡まれることは。
「あんた、ここの村の者かい」
「……そうですけど」
相手を睨みつけて、警戒と敵意を示す。勿論そんなことで引くような蝿などいはしないので まるで意味のない威嚇だが、それも無しに余所者を招き入れられるほど、私の度量は大きくない。
「旅の方ですか。こんな田舎村に何か御用です」
「ここに神の子がいると聞いた。力になって貰えんかと、やって来たんだが……」
「そうですか」
さて、どうしよう。
本音を言えば、そんな者はいないし知らない、他所を当たれと追い払ってしまいたい。
けれど、妹はそれを望まないだろう。
あの、度の外れたお人好しは。
そんなだから、ああやって疲れることになるのに。
もっと自分を思い遣ったっていい筈なのに。
この襤褸を纏った親子に、妹は笑いかけてやって、望みを叶えてやって、お幸せにと言うのだろう。心から。
「……こちらです」
沈黙に怪訝したらしい男が何かを言い出す前に。その言葉で我を失う前に、私は彼らに背を向けて 歩き出した。村の中へと、案内した。
足取りは重い。
一歩を進めると、桶の水が、だぷんと揺れた。



妹がそんな彼らを見送る姿が嫌いだった。
疲れを押し隠してまで手を振る必要なんて、どこにも無いのに。
神子だのなんだのの力だって、本当に代償が無いのかも分からない。
このまま続けていけば、彼女の身に何があっても可笑しくはない。例えばただの過労であっても、 心の病であっても。
「……未夜(みよ)」
「姉さん……いたんだ。気付かなかった」
脅かさないで、と妹は、笑う。
笑う。
……何のために?
私には分からない。
椀を妹に渡した。
「水、汲んできたよ」
「ありがとう。……ごめんね、わざわざ……」
「あのね、こんなのは大した事じゃないって何度言ったら分かってくれるの? ……それに、」
切って、妹の額に手を伸ばした。
まだ熱い。少し悪くなったような気もする。
「どうせ謝るなら、具合も良くないのにこんなことする方を謝って欲しいものね」
「でも……」
「でももだっても聞きません。ほら、それ飲んだら布団に戻りなさい」
「……はあい」
水を飲む妹の姿から、立ち去る親子の背中へと目を移した。子どもの方はまだぐったりとしているようだったが、 それもじきに良くなるのだろう。
どんな問題を抱えていたのかは知らない。
興味が無かった。
人の妹を体の良い道具扱いされること以外は、彼らの陥っていた不幸なんて知ったことではない。
とにかく、これが妹の願いだというなら……やっぱり私には、見送るしかないのだろう。
こんな気分には、これでも慣れたつもりだ。
そう、もう慣れている。
胸に掛かる多少の靄は、抑えられる。今にも親子を追いかけたい脚も、胸倉を掴み上げたい腕も、 罵倒を叫びたい喉も。
抑えなくてはいけない。
これは、私の妹が自分で望んだことなのだから。
「姉さん、これ」
「ん?」
振り向くと、妹は半分空になった椀を両手で支えて、何かに思い至ったような目で私を見ていた。
「甘い」
戸惑ったような声で私を呼んだ。
「塩と間違うほど目は悪くないわよ」
「だって姉さん、砂糖は貴重だって」
「あんたを訪ねてくるあの人達があんたにお礼って持ってきたのよ。あんたが飲み食いするのに遠慮なんか いらないでしょう」
「でも私、父さんにって言ったのに……」
今度は、責めるような目と縋るような声。
……そうだ。
妹は、何よりも他人を想う。
見ず知らずの人を。目の見えない父を。水を汲んだだけの姉を。
扱き使われている自分よりも。
見ていて、苛立つほどに。
靄。脚。腕。喉。
抑えているのは、もっと別のことかもしれないと思ってしまいそうな、ほどに。
「……父さんも大変かもしれないけど、あんただって大変でしょう」
「だって、姉さん――」
「私にはあんたを労わせてもくれないの?」
意図もしないのに、声が荒くなった。
意図もしないのに、脚が、腕が、喉が動いた。
意図もしないのに。
私は逃げるように、家の外へと駆け出していた。
何から逃げたのかは分からなかった。
妹かもしれないし、自分かもしれなかった。
井戸とは反対の村外れへと道を辿り、森の中に入ったのだと自覚したときには、目の前には花園があった。
息が切れていた。
胸が苦しかった。
寄せ集めれば五丈ほどにもなりそうな、思いつく限りの色を集めたような鮮やかな、幼い頃から妹と遊んできた、 その花園にしゃがんで、私は嗚咽した。
意図もしないのに、涙が溢れてきた。
悔しいのか悲しいのか怒っているのか、自分のことさえ分からなかった。
そよいだ風は私を慰めているのだと思い込むほかにどうしたらいいのかも、分からな

その。
風に紛れて


《――――》


「え……?」

声が、聞こえた。


……ような、気がした。
見回しても、あるのは青々と繁った木々の梢と、取り取りと色付いた花園だけ。
風が、枝葉を掻き混ぜた。
その音を……聞き違えたのかもしれないと。
「……」
納得することにした。
声と断言できるほど、はっきりと聞こえたのでもないのだから、それは容易いことだった。
その日、床についたとき。
ひょっとしたら、うそつきと聞こえたのかもしれないと思い至るまでは。




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