ゆるゆると流れる、細くも太くもない、一本の川。
貧相な筏に乗って身を切るような寒さを抜けた私を、穏やかで静かなせせらぎはいつものように運んでいく。それが あるべき姿なのだと云わんばかりに。
川の両岸には若草や、小さな花が控え目に顔をのぞかせて、春を思わせる芳香で私の鼻をくすぐっている。
目を細めながら、私は両手で支える櫂で川を掻き回す。渦をまいた場所を埋めるように水泡が湧き上がり、大小の 石が洗われる川底に残滓を泳がせながら、程なくして鎮まる。
底が見えるほど澄んだ川の中にいる今がとても心地よい時間に思えて、無意識に口の端が軽く持ち上がる。目元だって 和んでいるに違いない。
そして、
その景色を誰かが見たことで、きっと何処かで誤解が生まれたのだろう。
私が、川が、誰しもの味方であるのだと。


- 川下り -


人の声が聞こえたような気がして、私は気を付けながら首を巡らせた。この手製の筏は持ち主と同じように軟弱で、 持ち主以上に忍耐が無いので、下手に重心を動かすと簡単に転覆してしまうのだ。
僅かな身じろぎの結果、私の両目は一人の少女を受け止めた。新芽を蓄えた幾つもの樹木の一本に、山菜を入れた 籠を下げた片手を掛けて、川にずり落ちないようにしながら右手を大きく振っている。
珍しいものを見た、と思ったのだろう。その少女は好奇心を乗せた瞳を弧に曲げて、私に意識を向けている。笑いは しなかったものの、私も似たような心境だった。川の近くに住む物好きな人間など、滅多にいるものではないからだ。
「こんにちは! あなた、旅人さん!?」
「ええ!」
少なくとも、それに似たようなものだ。旅をすることに目的がある時点で、もう旅人とは呼べないのかもしれないが、 私も自分の立場の正確な呼称を知らないので、ひとまずは肯定することにした。
だいぶ距離がひらいていたので、お互いに大声を張り上げる。私はあまり声を荒げないたちなので、きちんと相手まで 声が届いているか心配だったが、どうやら思ったほど喉も腹筋も鈍っていなかったようだ。
少女は笑顔のまま、右手でいずこかを指し示した。
「向こうに桟橋があるわ! 良かったらうちに寄ってってよ!」
「桟橋……?」
その不思議な言葉を口の中で転がしている間に、少女は自分で指した方向へさっさと身を翻してしまった。
「……」
折角の好意をすっぽかすのも失礼だろう。そう考えて、私は少女を追うために櫂を傾けた。






「旅人なんて初めて見たわ。本当にいるのね、そういう人って」
「珍しいものですけどね」
「自分で言うの?」
お世辞にも歩きやすいとはいえない獣道を渡りながら、変な人、と少女は笑った。前を向いている相手には 見えないと知りながら、私は小さく肩をすくめて流した。
道すがら、彼女はマチと名乗った。請われた私はツカと名乗った。
必要以上の水は含ませたくないので、筏は川から引き上げて日当たりの良いところに干してある。長いこと 川に漬けっぱなしだったせいで、マチに手伝ってもらわなければならないほどに重かった。
私の名乗りを聞いたマチは、目を丸くして肩越しに振り返った。
「ツカ? つかって、あの柄のこと? 刀とかの」
「さぁ……。よく知らないのですが、そう名乗ることにはしてます」
「やっぱり変なの。じゃぁそれ、本当の名前じゃないの?」
「さぁ……」
マチはまた笑い、私の気も少し楽になった。
自分が小さな村に住んでいること、川岸には山菜を採りによく来ること、村も川の近くにあるが、川を下るような 旅人がいるとは知らなかったこと、そんな他愛のない話を、マチは息継ぎすら惜しむように語った。その様子が あまりにも嬉しそうなので、常から話し相手に困っている境遇なのかとつい思ってしまったほどだ。
自分の両親が末の弟を大層可愛がっているというところまで話が進んだとき、あ、とマチは声を上げた。
「どうかしましたか?」
「ツカさんは良い時期に来たんだってこと、すっかり話しそびれてた」
「良い時期?」
「そう。今日はね、玉の祭なのよ」
「ぎょくの……まつり?」
「私の村で毎年やってるお祭で、提灯を村中の家の玄関に飾ったり、村の中心の広場にやぐらを組んで、その周りを 皆で踊ったり。その日だけは子どもの夜更かしも許されるのよ」
「それで、どうして玉の祭なのですか?」
悪戯っぽく付け加えるマチに、私は撓む野草に足を取られそうになりながら疑問を投げかけた。
「見えなかった? 他の場所はどうだか知らないけど、川のこの辺だと小さい玉がたくさん採れるの。その玉に村の 一年の豊穣と息災を祈願して、日付が変わる頃に、灯篭に入れたその玉を川に流して返す。それが祭の終わり」
「へぇ……」
「でもそれだけじゃなくて、亡くなった村人の弔いも兼ねてるのよ。玉を亡くなった人の魂に見立ててるん だって」
「成程」
玉は『たま』とも読む。それと『魂』をかけるのは、詩でもよくあることだ。
だが、玉は高価なものだ。折角採取したそれを惜しげもなく流すとは、その村は余程信心深い人々から成り立って いるのだろう。感心を口に出すと、マチはくすりと笑った。
「あんな村で生きていくのに、宝石なんて誰にも必要ないもの」






あんな村という形容に違わず、そこは本当に小さな村だった。家畜はおらず、家屋も二十件あるかないかで、 よくこれでひとつの集落として存続しているものだと感心してしまった。
村人は農作業と祭の準備に忙しく動き回っていたが、余所者が紛れ込んでいるのを誰かが見つけては警戒心も 露にマチに問いただしたため、マチが自宅に戻る頃にはすっかり日が傾きかけていた。
「マチ?」
「ただいま、母さん」
山菜の籠を受け取りながら私とマチを見比べる女性に、もう十回以上になる私の紹介を、マチは辛抱強く繰り返した。
「この人、ツカさん。さっき村の近くで会ったの。旅人なんですって」
「旅?」
「初めまして、ツカです」
一度目の自己紹介で、ツカと呼んでくださいと言うと少し変な目で見られることを学習したので、とりあえず そう伝えておいた。
「ねえ母さん、ツカさんを泊めてあげられないかしら。今日はお祭でしょう? 案内してあげる約束もしたし」
「案内って……」
「もう、変に疑わないでよ。ツカさんは悪い人じゃないわ、祭を荒らしたりなんてしないわよ」
笑顔で言葉を交し合っていたマチにすらそんな目で見られていたことを知り、私は軽く頬を引き攣らせた。そこまで 凶悪な風体だっただろうか。
私の表情の変化をどう受け取ったのか、マチの母親は私を胡乱な眼差しで一瞥すると、再び娘に目を落とし、諦めた ように息を吐いた。
「変なこと、間違ってもさせないようにね」
「しないってば!」
念を押して家の奥へと引っ込む母親に憤慨したマチは、申し訳なさそうに眉をハの字に寄せて私を見上げた。
「ごめんなさい。あの、他所の人なんて長いこと来なかったから……」
「大丈夫ですよ。それより、弟さんに声を掛けてあげなくていいんですか?」
「え?」
私が顔を向けた先を追ってマチが振り返ると、家の陰から、十歳前後の男の子がこっそりとこちらを伺って いた。部外者に向けるその視線は、マチと同じように明るく好意的なものだった。
「キヨ、こっちにおいで。ツカさんに挨拶しないと」
姉に促され、キヨはこちらにそろそろと近付いてきた。姉よりは警戒心があるのか、ただの人見知りなのかは 判断がつかなかった。
「ほら」
「……こんにちは」
「こんにちは。ツカと言います」
「キヨ。……です」
「普通にしてくれて構いませんよ。私のは、癖みたいなものですから」
思い出したように丁寧になる口調に笑みが零れてしまった。しゃがみ込んで頭を撫でると、反応に困ったのか、 キヨはマチの袖を軽く摘んだ。
「もう、キヨったら。もう十歳なのに、お子様ね」
「……」
そんなことを言いながら、懐いてくる弟はまんざらでもないらしいマチに拒む様子はなく、キヨもキヨで、 口を尖らせてはみたもののマチから離れようとはしなかった。似た者姉弟であるらしい。
「そうだ。ツカさん、お祭なんだけど、キヨも一緒じゃ駄目かしら。この子、ちょっと体が弱くて……友達が、 その、あんまり多くなくて、お祭も今年が初めてなの」
「嬉しいですね。祭は大勢で行く方が楽しいものと決まっているんですよ」
受け売りの言葉を本心から紡ぐと、マチとキヨは不安そうな表情から一転して笑顔になった。
初めて踏み入れる人の祭は、本当に楽しくなりそうだと思った。


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