吊るされた提灯は夜の村を賑やかに照らし、月や星の光りさえ跳ね除けるほどに明るかった。独自の振り付けなのか、
見たことのない手足の動きで踊る人々の輪の中からは、太鼓や笛の音色が威勢よく響き、更にその中心には、
やぐらに置かれたたくさんの玉が提灯の光を受けて誇らしげに輝いていた。
私はキヨと二人で、踊りに興じる村人達を少し離れた場所から眺めていた。キヨは振り付けを知らなかったし、
そもそも踊りに加わることに興味を示さなかった。
マチはといえば、広場の周囲の家々の玄関先で行われている炊き出しを貰ってくるからと席を外していた。この
炊き出しも祭の醍醐味のひとつで、祭の夜にしか作られない料理が多く振舞われるのだという。楽しそうに
駆け出していった少女の後姿を見るに、祭用の料理というのは相当に美味いのだろう。
ふと横を見下ろせば、キヨはぼーっとやぐらの上を眺めていた。祭に出発した時から一言も発していない様子に、
物静かな気性なのか、それとも人見知りなのかと内心で首を傾げたが、どうやらそれは前者であるらしかった。普通は
やぐらの上で太鼓を叩くものではないだろうかという私の問いに、キヨは特に緊張する様子も見せず、淡々と
言葉を返した。
「他のとこじゃどうかは知らないけど、玉の祭の主役は玉なんだって。だから、玉を村で一番高いところに置かなきゃ
いけないんだって、母ちゃん言ってた」
「へえ……面白い習慣ですね」
「川の近くに住んでるのも、オモシロイことなの?」
キヨは大きな瞳を私に向けていた。川というものの特異性は、誰もが寝物語に知っているようなことだ。それを
この村では十歳の子どもの耳に入れないのだろうか。それとも、キヨが知らなかっただけのことだろうか。
不審には思ったが、何かあってからでは遅いので軽く釘を刺しておいた。
「川は危ないからですよ。溺れてしまうといけませんから」
「でも、川の水がないと生きていけないんだよ。だから俺たち、川の近くに住んでるんだ」
「え?」
「母ちゃんが言ってた」
どういう意味だろう。そう尋ねる前に、キヨは広場の隅に駆け出していった。その向かう先を目で追うと、料理の
入った器を持ったマチが楽しそうに笑っていた。
その後も、マチが踊りの輪に加わったり、家ごとに違う提灯の形を見て回ろうと私とキヨを引っ張ったり、途中で
目に付いた料理を口に運んだりとしているうちに、時間はあっという間に過ぎていった。歩きつかれたキヨは、
私の背中で眠っていた。
「本当にごめんね、ツカさん。重かったら言ってね」
「気にしないで下さい。こういうのは年長者の役目ですから」
もちろん、年齢の割りに若干小柄なキヨも曲がりなりにも十歳児なのだから、それなりに重くはあるのだが。
「玉を川に流すというのは何処で行われるんですか? やはり桟橋の……?」
「そこからもう少し下流に行った所よ。川原があるんだけど、そこで村人達が一人ひとつづつ玉を流すの。……
起きている村人全員でね」
くすくすと笑いながら、マチはキヨの背中をあやすようにそっと叩いた。鬱陶しそうに身じろぎをするキヨが
可笑しかった。
村に来たときと同じように、私達は当たり障りのない話をしながら浅瀬に向かった。
「……ねぇ。ツカさんはどうして旅をしているの? しかも川でなんて」
途中、ふと思いついたといった風情でマチが私に尋ねた。どう答えるべきだろうかと逡巡し、
「どうしてだと思いますか?」
「私、そうやってはぐらかされるの嫌い」
質問で返しても、あっさりとかわされてしまった。しっかりした娘であるらしい。
「だって川って良くないものなんでしょう? 生きている人と死んでしまった人を分けて、引き離してしまう
ものだって。そういう変な言い伝えがあるから、みんな怖がって川に近付かないんだって」
「そうですね」
「ここの村が変わってるっていうだけなのよね。水が欲しいだけなら、川じゃなくても泉があるし」
「……」
「でも、私達は川の水じゃないと駄目なのよ」
キヨの言葉が頭の中で蘇った。何故かと問おうとしたが、マチの眼差しに僅かな翳りがあるような気がして、結局
私は口を噤んだ。
しばらくは双方が無言で、二人分の足音と、草木をすすぐ夜風だけが耳に届いていた。
「あのね」
マチは夢を見ているような囁きで、静寂(しじま)の帳を唐突に開けた。
「私、川ってそういうものじゃないと思うの。生きている人と死んだ人を分けるものじゃなくて、仲立ちをするもの
なんじゃないかって」
「そ――」
それは違う。続けようとした私を遮って、マチは自分の話を結んだ。
「だから、私達はツカさんと会えたんだって」
「……」
「……」
――それきり、二人は再びの沈黙に身を埋めた。
足元に気をつけながら、私は何の気なしに良く晴れた空を見上げた。村の灯りも遠ざかったこの場所では輝く星が
綺麗に見えた。探してみても月は見えず、しばらくして今夜が朔の日だったことを思い出した。確かに、いくら数を
集めたとしても、提灯が月明りを隠すのは無理だ。
視線を落として正面を向くと、私には見慣れた川がいつの間にか迫っていた。そこに、ぼんやりとした光りを放つ
小さいものが漂っていた。灯篭のような箱に入れられ、村人に川原へ放されている情景に予想はついたが、あれは
本当に玉なのだろうか。
「ここの玉は光を吸い取るのよ」
「光を……?」
「そうよ。不思議でしょう? ずっと光を当てておくと、暗い所で吸い取った光を放つ玉なの」
「変わったものが多いのですね、この村は」
「そうでしょう? だから私、この村が好きなの」
「……」
「とても好き。ずっとここにいたいわ」
マチの笑顔はとても嬉しそうで、背中を通して伝わってくるキヨの寝息も穏やかだった。玉を流す村人達も
優しい色を浮かべていた。
愛しささえ覚えるこの安らぎを壊してしまうことを覚悟して――あるいは壊すそのために、私は仕舞い込んだ言葉を
取り戻した。
「川は、生者と死者を隔てるものではありません。……そのふたつを結びつけるものでもありません」
マチがこちらに顔を向ける気配を知りながら、私は川を行く玉の群れを見つめ続けた。
「川が不吉だというのは、川岸を此岸と彼岸に見立てた故の言い伝えです。流れる川というのは、単なるその
境目でしかありません。良いものでも悪いものでもなく、冷たいものでも優しいものでもありません。そして、
川は踏み越え行くのも戻るもの自由です。ただ、見た目よりも遥かに広く、向こう岸が果てしなく――遠い」
「……」
「だから川は、吉とも不吉とも捉えられてしまうのですよ」
やんわりと想像を――あるいは希望を否定されて、マチは不貞腐れるような、哀しむような、何かが綯い交ぜに
なった表情を浮かべた。
「……もし越えられたら? 川を越えることができたら?」
「何もないでしょうね。賞賛も嫌煙もされず、そこに存在するだけの無です」
「…………何、それ。無なのに、存在なんて」
「存在しなければ、その名すら誰にも知られないでしょうから」
「………………」
押すでも引くでもなく淡々と事実のみを繋いでいく私に、マチは何かを思っただろうか。川に流れていく玉の船を
映した目は眇められて、私からでは上手く様子が伺えなかった。
光の行方を眼で追いながら、今度は私が話を結んだ。
「でも、死した魂を思い出して、懐かしむことが悪いわけではありません」
「え?」
虚を突かれたのか目を瞠るマチを、私はその背を軽く叩いて促した。今すぐ深く考えさせる必要はない。川を下る
者は確かに珍しくはあるが、私一人だけではないのだから。
「さぁ、そろそろ行かないと。玉を流すのでしょう?」
祭の日に現れた私に、良い時期に来たと言っていたマチ。この祭をずっと楽しみに待っていたのだろう。――ひょっと
したら、何年も昔から。
我に返って頷いたマチは、川原へ向かう前に私の手を取った。
「ツカさんも玉、流してよ」
「いいんですか?」
「うん。みんな喜ぶから」
ようやく私を振り返ったその瞳は、初めて会った時と同じ明るさを宿していた。
私はマチに手を引かれて、玉に照らされた川原へと降りていった。
少女に手渡された灯篭の中を覗き込んだ。淡い光を纏った小さな玉がひとつ、通された紐で灯篭の底に括られていた。
川原に歩み寄り、膝を突いた。水面にたゆたう玉の灯りが、ゆっくりと川下へ流されていく景色は、喩えようも
ないほどに美しかった。
村人達に倣い、一度灯篭を頭上に掲げてから、倒れないように川に放した。
揺らめく玉の残滓は、今でも瞼に焼き付いて離れない。
今でも――一夜が明けてあの村を離れ、玉の軌跡を追うように川を筏で進む今でも。
春の息吹は私を囲み、そろそろ鬱陶しくなってきた髪を通り抜けていく。次に陸に上がって休む日には、ちゃんと
切るようにしよう。それがいつになるのかは、私にも分からないが。
祭が終わった後、マチの家で仮眠としかいえない睡眠をとり、薄い霧のかかった村を出発した。辿り着いた桟橋の
付近には、だらしなく横たわる筏と、のんびりと座り込むマチがいた。
「おはよう、ツカさん。よく眠れてなさそうね」
「どうしたんですか? 昨夜も遅かったのに、こんな早くから」
「見送りに来たの。もう会えないから」
「……」
「だって、川を下って旅をしているんでしょう? この村には、もうツカさんは来られないもの」
少し寂しそうな笑顔で、マチは左手で筏に触れ、冷たい、と小さく悲鳴をあげて手を放した。苦笑を零しながら、
私は取り付けてある紐を取って筏を川へと引き摺り下ろした。陸に上げた時のような苦労はまるでなかった
「ちょっと、訊いてもいいですか?」
荷物を抱えて筏に乗り込んで、私は最後にマチを振り返った。何、と首を傾げるマチは、やはり笑顔だった。マチの
視線を絡め取り、言った。
「あなたは、生きていたいですか?」
ほんの一拍の間、マチからは笑みも翳りも失われた。
少女は目を細め、口を開きかけ――それを閉ざし、
いつものように微笑んだ。どこか、満足そうに。
私は少女に首肯だけを返して、川の下流を見晴るかした。辿り着けない此岸と彼岸の境界の行き着く先を。
「さようなら」
一言だけを呟いて、私は櫂で川岸を軽く押した。何の未練も思わせず、あまりにもあっさりと筏は川へと戻っていった。
しばらく進むと、昨日のように誰かの声が聞こえた気がした。
私はそれに応えて、挨拶をするように片手を挙げて、
無造作に振り下ろした。
少女を――村を振り返ることはしなかった。
そこに誰もいないことは分かっていたから。
分かっていたから、
私はこうして、春の気配に囲まれて変わらず筏を漕いでいる。
進むにつれて、次第に暖かさが増していく。川底に沈む色鮮やかな玉の数は、合わせるように減っていく。
やがて途切れる玉の道を越えても、絶えず伸びる川の中で私は流れ続けていく。
おそらくはきっと、これからも。
2006.02/22
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