- 猫の耳とオレンジの電球 -


はい、じゃぁそろそろ寝んねしましょうね。
心の中だけでそう語りかけると、出路はピシャを両手で持ち上げた。木製の猫は黙って出路の為すがままにされている。にゃぁとも鳴かない。それについて分別ある出路が不満を発することは無い。親友のピシャが眠そうにしていることは、出路には言われずとも分かっているのだ。
ピシャを右腕に抱えなおし、出路は左手を床に付けてゆっくりと立ち上がった。ピシャの機嫌を損ねるようなことはしたくなかったし、何より今、あまり物音を立てるわけには行かないのだ。良一の仕事は精密な作業が必要なので、それを邪魔してはいけない。
だが、
ごん。
鈍いその音に身を竦ませれば、続いて良一のささくれ立った短い呟きが、僅かな空気の流れに乗って出路の鼓膜に食らいついてきた。
「ああ、くそっ」
五歳児の配慮は無為に終わった。どうやらまた失敗したらしい。
自分のせいではないことを知っているので、出路は臆さず振り返った。良一は右手を振りながら椅子に座りなおす所だった。
大方机に八つ当たりでもしたのだろう。夕飯前に翆が掃除したばかりの床には、重力に屈した水滴のように鉋屑が飛び散っている。
出路はいつも不思議で仕方が無い。良一はどうしてあんなに綺麗なものを前に苛々しているのだろう。ピノキオを作り終えたゼペット爺さんは、もっと満足そうに笑っていたはずだ。
ピシャのこともあんまり好きじゃないみたいだし。
こんなに可愛いのにどうしてだろうね、と出路は大きめの猫の背を撫でた。
今墨良一は彫刻家だった。世間一般の偏見と違わず、彼は偏屈だった。その上頑固で口うるさい。特に自分の彫刻作品には強すぎて細かすぎる理想を持っていて、少しでも崩れるとさっさと放り出して作り直す。ちなみに失敗作は、完成品が仕上がった後に廃棄されるのが常だった。
良一の失敗の全ては趣や風情とされてもいい程度で、普通の人は気にも留めないような、指摘されなければ一生気付かないような極小さなものだ。「上手く行かなかったときは、ちゃんと素直にごめんなさいって言おうね」とは幼稚園の先生の言葉だが、その失敗を味として好む人がいることを出路は知っているし、出路自身も、良一の作品の小さな瘤やざらつきが好きだった。
翆は「芸術家だからね」と、それこそ偏見に満ちた理屈で納得しているが、相変わらず出路は首を傾げるしかない。
ちなみに、ピシャも良一の手で彫られ、失敗の烙印を押されている。と言っても、ピシャの場合は良一に責任はない。地震で机が揺れたときに床に落ちてしまい、耳の一部が欠けてしまったのだ。だが商品には出来ないということで、本来ならガラクタとして棄てられる予定だったところを、可愛いからと出路が強請って譲り受けたのだった。
「おじいちゃん、おやすみ」
「ああ、おやすみ」
年の功なのか爺馬鹿なのか、どんなに不機嫌でもそれを出路に向けないのは良一の長所だ。が、ピシャを視界に入れるなり苦い顔をしてしまうのは、それも芸術家の性というものなのだろうか。ピシャの親友としては少し寂しい出路だった。
出路はピシャと一緒に階段を上がった。寝る前の遊び場と決めている祖父の工房から出ると、丁度翆が居間から出てきたところだった。お盆の上にお菓子とお茶が載っている。
「あ、お菓子だ!」
「だーめ。出路、おじいちゃんどう?」
「さっきまた間違ったみたいだよ。オガクズ床にばーってなってた」
「えぇ? もう、困ったおじいちゃんね。出路はもう寝る?」
「うん。ママは? おじいちゃんのこと叱りに行くの?」
「そうよ。いつまでやってるのってね」
地下の工房に音が漏れないように、二人でくすくす笑った。
おやすみを言い合って、出路は寝室に足を運んだ。もう八時半だ。そろそろ本当に寝なければ、仕事を終えた良一に怒られてしまう。襖を開け、家で唯一の畳の部屋に滑り込む。真っ暗だと怖いので、蛍光灯の紐を二度引っ張り、電球を一つだけ点けた。交換したばかりの冬布団に潜ると――朝はあったかいのに、なんで夜だと布団は冷たいんだろう?――、出路は枕元にピシャを置いた。
「おやすみね、ピシャ」
相変わらずピシャは寡黙だった。
欠けた耳は相変わらずパリの塔のように斜めで、喧嘩で負った傷のように見える。可愛いピシャは、そういう小さなところでかっこいいのだ。いつかきっと、良一もそれを分かってくれるに違いないと思う。
もう一度ピシャにおやすみを言うと、出路は天井に留まる小さなオレンジの点に顔を向けた。
やがて訪れた睡魔と共に、出路は夢の世界に入っていった。




2005.11/20