- 花筐 -


 そこは、一面の花園でした。
 横手に雲まで届く高い山がある以外には、何も見えないほどでした。
 そこは、一面の花園でした。
 赤、黄、白、桃、青、橙、紫、……思いつく限りの色が溢れた、絵のように鮮やかな、とても美しい花園でした。
 虫が、鳥が、獣が訪れては、花園の穏やかさに目を細め、ゆったりとくつろいでいました。
 「なんて居心地のいい所だろう。極楽浄土も、きっとここより良くはない」
そんな動物達を受け入れては、花園も嬉しくなって笑ったものでした。
「どうぞ、ゆっくりしてお行きなさい。好きなだけここにいて、眠ってお行きなさい」
 生きるものの足音や息遣いは、風に運ばれて来なくとも、花園のそこかしこを満たしていました。
 地平線まで届けとばかりに、花園は誇らしげに揺れていました。
 どこまでも、どこまでも、揺れていました。
 そこは、一面の花園でした。



「わあっ」
 ある春の夜のことです。
 一人の、人間の女の子が花園に訪れました。
 女の子は、まるで突然現れたかのように、花園の真ん中に立っていました。
 髪の毛の随分と長い、大きな目と小さな手をした女の子でした。綺麗な羽織を白い着物の肩に掛けていました。月明りに照らされて、青白い顔をしていました。
「なんて綺麗なんでしょう! どんなお話や絵よりも、ずっとずっと綺麗な、お花畑……」
 とても嬉しそうに、女の子は花園にしゃがみ込んで手を伸ばしました。
 それが至極自然な流れだったものですから、花園は寸前まで、女の子が花を摘もうとしているのだと気が付きませんでした。
「娘さん、やめてください! お願いです、痛いことをしないで下さい」
「あらっ。お花畑、いいえ、お花畑さん。今、ひょっとしてあなたが喋ったの?」
「そうです。どうか娘さん、花を摘まないで下さい。そんな痛いこと、後生ですから」
「お花畑も、痛いって思うの?」
「当然ではありませんか。この通り、私はちゃんと生きているのですよ」
 そんなはずはないとでも言いたそうな女の子に、花園は少し不貞腐れてしまいました。
 一体、この娘さんは誰なんだろう? どこから、いつ、やって来たのだろう?
 それに、自分達は今、少し煩いくらいに言葉を交わしているのに、他の動物達が目を覚まさないのはどうしてだろう。何にも邪魔されず、彼らがゆっくり休めるならば、それが一番ではあるのだけれど。
「そうだったの。そうね、ごめんなさい。私、分からなかったものだから」
 本当に済まないと思っているらしく、女の子は土の上に膝を付いて、心配顔を傾げました。摘もうと思っていた花を撫でて、なんとか花園が機嫌を直してくれまいかと考えているようでした。
「……いいえ。分かってくれたなら良いのです。それで、娘さん」
 ここは、年上として自分が折れてやるべきだ。そう思った花園に、女の子はなぁにと返事をしました。
「娘さんはどこから来たのですか?」
「向こうよ。あの山の向こうには人里があるの。私はそこから来たのよ」
「どうしてここに来たのです? いいえ、どうやって?」
「行きたいな、と思って目を瞑って、開けたときにはここにいたの」
「今はもう、こんなに遅い時間なのですよ。そら、お月様も私の真上に来ているでしょう」
「あら、本当。とっても綺麗ね。あなたによく似合う、綺麗な満月だわ」
「そういうことを言いたいのではありません。里に戻らないで良いのですか」
「良いのよ。私はもう、ずぅっとここにいても良いの」
「どうして」
「そういうことになったの。だって私は、毎日毎日山の向こうに行ってみたいと願っていたんだもの。そのお願いが叶ったから、私はここにいるのだもの」
 女の子は、花園の上にうつ伏せになりました。ちょうど花園を抱くような格好になりました。
 花園は困ってしまいました。
 確かに、やって来た動物達を招き入れることはやぶさかではないのですが、この女の子には帰る家がちゃんとあるのです。
 人間という生き物は賢いので、それ以外のあらゆる動物から身を守るための知恵を持っているのです。女の子が人里に住んでいるのなら、そこにいた方が、もっとずっと女の子は安全なのに。
 花園は、何度も何度も、女の子にそう言いました。
 けれど、女の子は花園の言葉を聞き入れませんでした。
 花園がついに諦めたときには、お日様が白々と姿を見せ始めた頃でした。
 それまで、花園の腕で休んでいた動物達は、誰一匹として目を覚ましませんでした。



 女の子が花園を訪れてから、もう何日も経ちました。
 女の子は、一向に花園から立ち去ろうとはしませんでした。
 食べ物を捕ってこようともせずに、花園とお喋りをし続けて――これは何の花? あそこにいるのは何ていう動物? など、何も知らない女の子は、花園が呆れてしまうほど質問をしました――、眠ることや、雨を避けることさえろくにしませんでした。
 最初こそ、花園も女の子を心配したものですが、何日経っても女の子の顔色や姿形が変わらないことを見て、今ではそういう人間もいるのかしらと、腑に落ちないながらも納得をしていました。家に帰った方が良いと忠告をすることも、次第になくなっていきました。
 女の子は、ずぅっと花園にいました。
 お日様やお月様と何度挨拶をしても、女の子は花園から去りませんでした。
 花園と女の子は、すっかり仲良くなっていました。
 花園と女の子は、いつも一緒にいるのが当たり前になっていました。
 花園が女の子に帰るように勧めなくなったのは、それが原因だったのかもしれません。
 花園は、これからもずっと女の子と一緒にいられたらいいのにと思うようになりました。
 動物達は、決して女の子を気に留めませんでした。
 女の子の声も、姿も分からないかのように、女の子を見ようともしませんでした。
 彼らの代わりに花園は謝りましたが、気にしなくても良いから、と女の子は言いました。
「お花畑さんは悪くなんてないのよ。仕方のないことだもの」
 そう言って、笑いました。



 その日の空には、とても綺麗な満月が浮かんでいました。
 花園と女の子は、土の上からじいっとお月様を見上げていました。
「綺麗ねえ」
「そうですね」
「お星様も、綺麗ねえ」
「そうですね。ほら、そっちには星の川も見えますよ」
「あら、本当。綺麗ねえ」
「ええ、綺麗ですね」
「あなたに良く似合って、とっても、とっても綺麗だわ」
「ありがとう。あなたにも、とても良く似合っていますよ」
 そんな風にして、花園と女の子は、涼しい夜風に吹かれていました。
 しばらくは、静かな時間が流れていました。
 誰も何も喋らないままで、ただ、花園の中の虫達だけが、りぃん、りぃんと唄っていました。
「ねえ」
 静かな夜を、障子を指で突くように破いたのは、女の子の方でした。
「ねえ、お花畑さん」
「なんですか、娘さん」
「私ねえ、ずぅっとここに来たかったの」
「ああ、そう言っていましたねえ」
 応えながら、花園は、女の子が初めてこの場所へやってきたときのことを思い出しました。
 女の子はあの日と同じように、綺麗な満月に照らされて、青白い顔をしていました。
 その日のことが、花園にはもうずっと昔のことのように思えました。
 お月様を見上げながら、女の子は喋り続けます。
「山の向こうはどんなところなんだろうって、ずぅっと思っていたの」
「そうでしたねえ」
「絶対に行ってみたいなあって思っていたの。だから、ここに来られてよかった」
「そうですか」
「お花畑さんと仲良くなれて、私、とっても嬉しい」
「私も、とっても嬉しいですよ」
「ありがとう、お花畑さん」
「こちらこそ」
「ごめんなさい、お花畑さん」
「え?」
 そよそよと風に遊んでいた花園は、ぴたりと動きを止めました。
 女の子が突然そんなことを言うものだから、花園は驚いてしまいました。
 ひょっとして、故郷に帰りたくなったのかしら。雲まで届くあの山の、向こう側へ。
 だから、謝っているのだろうか。
 もう一緒にはいなくなるから。
 花園は怖くなりました。
 花園はもう、女の子とはずっと一緒にいられると思っていたからです。
 女の子が来るまでは、花園はいつも一人ぼっちでした。
 動物達はひっきりなしに花園の元にやって来るけれど、一晩だけ過ごしてどこかに行ってしまう者も少なくはなくて、花園には友達が出来なかったから。
 まさか、まさか、娘さんはいなくなってしまうのかしら。
 娘さんも、いなくなってしまうのかしら。
「娘さん――」
 どこかに行ってしまうのですか。
 そう訊ねようとして、そんなのじゃないわと言って欲しくて、花園は女の子を見上げました。
 そこに、もう女の子はいませんでした。










 それからというもの、花園はすっかり元気をなくしてしまいました。
 色とりどりの姿はみるみるうちに褪せて、痩せていきました。
「花園さん、一体どうしてしまったのです。あんなに美しかったのに、この有様は、一体どうしてしまったのです」
「娘さんがいなくなってしまったのです。いつも一緒にいたのに、いなくなってしまったのです」
「娘さん? 一体どなたのことです」
「娘さんは、娘さんです。とても仲良くしていたのですけれど、急にいなくなってしまったのです」
「よくは知りませんが、とにかく元気をお出しなさい。そら、私の好物を分けて差し上げましょう」
 通り掛かった狼が、まだ乾いていない血のついた兎の骨を置いて、どこかへ去っていきました。
 ひょっこりとやってきた狐も、狼と同じように花園を慰めようと声を掛け、鼠の尻尾をお土産に置いていきました。
 けれど、花園は一向に元気になりませんでした。
 悲しくて悲しくて、毎日項垂れていました。
 動物達は、みるみるうちに枯れていく花園から、次々と去っていきました。
 やがて花園は、本当に一人ぼっちになってしまいました。
 いつまでも、いつまでも、女の子は戻って来ませんでした。



 やがて、女の子と同じように唐突に、別の人間が花園に訪れました。
 けれど、女の子とは違って、いつ、どっちの方向から来たのかははっきりと分かりましたし、女の子ではなく、男でした。
「やあやあ、これは見事な枯れ具合だ。周りの草原は青々としているのに、一体どういうことだろう。おい花園、聞こえているか。聞こえているなら答えてくれまいか。お前は一体どうしたのだ」
「娘さんが、いなくなってしまったのです」
 男の大声に少しばかり気を悪くしながら、花園はちゃんと答えました。
 この男は、女の子と同じ人間だから、女の子がどこに行ったかを知っているかもしれないと思ったからです。
 女の子の背の高さから目鼻立ちまで、女の子について、花園は分かる限りを男に教えました。
 男は少し唸ると、首を横に振りました。
「さあなあ。その、山向こうの里にいるというのなら、そこを訪ねるのが良いのじゃないかい」
「私は花園なのです。ここを動くことなど、私にはできません」
「けれどお前さん、その娘に会いたいのだろう」
「会いたいですとも。けれど、私にはできないのです」
 花園、しゅんとなりました。またもうひとまわり、花園の姿は色褪せてしまいました。
 男は暫く考えていましたが、やがて、俺が、と切り出しました。
「俺が、お前を歩けるようにしてやろうか」
「なんですって?」
 少しだけ勢いを取り戻して、花園は思わず聞き返しました。
 男は真剣な顔をして言いました。
「お前に方術をかけてやろう。そうして、お前が娘を探せるようにしてやろう。その代わり、お前は一番綺麗に咲いた花を一輪、俺に渡さなければならない」
「本当に、そんなことができるのですか」
「できなければこんな話をしたりはしない。俺は嘘をつくのが苦手で、一度も人を騙せたためしがないのだ」
「お願いします。どうぞ、この花を」
「うむ」
 たった一本、まだ枯れずに咲いていた花でしたが、花園は迷わず男に差し出しました。
 それは空を行く白い鳥に似た、どこか儚い姿の花でした。
 男は頷いて、なにやらむにゃむにゃと呪文を唱えると、花園に向かって、それっと指を振り下ろしました。
「ああ」
 花園は、動くことができるようになりました。
 毛虫のように這いずって、花園は地面を動けるようになりました。
 男は少し黙って、あさっての方向に言葉を捜しました。
「…では、探しに行こう」
「あなたも、来てくれるのですか」
「どう転ぶにせよ、事が済んだあと、俺は方術を解かなくてはならんのだ」
 こうして、花園は男と連れ立って、山の向こうに行くことになりました。
 花園はとても大きかったので、かなり広い地面が丸のまま、花園に取り残されて剥き出しになっていました。



 三日をかけた次の日の、お日様が空の天辺まで昇ったとき、花園と男は、人里に辿り着きました。
 まず、男が先に里に入りました。人の目を引いてはいけないという男に従って、花園は、山の麓の、人里からさほど離れていない場所に留まりました。一刻も早く女の子に会いたいという気持ちを抑えて、花園は、男が戻ってくるのを今か今かと待っていました。
「おや、誰かと思えば花園さん、あなたではありませんか」
 声を掛けられた花園が、はて、どこから聞こえたかしらと思っていると、花園の中から一匹の狐がひょっこりと顔を出しました。
 見覚えのある顔でしたが、花園はなかなか思い出せません。このところずっと塞ぎ込んでいたので、あまりよく物を覚えていなかったからです。
「ああ、僕を覚えていませんか。いや、無理もない。あのときのあなたの塞ぎようといったら、並みのものではありませんでしたからな」
「ごめんなさい、狐さん」
「いやいや、良いのですよ」
 本当に気にしていないようで、狐は軽く言いながら後ろ足で瞼をこすりました。
「それにしても、花園さん。どうやら、元気になられたようですな」
「そうでしょうか」
「そうですとも。あの頃は、ほとんどの花が萎れて、悪い虫までたかって、あなたの素敵な花弁や葉っぱは荒れに荒れていたというのに。随分と良くなられたようで、いや、何より」
「すっかり良いわけではないのですが、確かに、かなり良くなったようです」
「娘さんとやらのことは、吹っ切れたということですかな。何より、何より。過去というものは、後ろ暗いばかりの厄介なものでしかありませんから」
 しみじみと呟く狐に、花園は少し慌てて、違う、と言いました。
「やや。違うと」
「ええ。私は娘さんを探しに来たのです。娘さんは、ここから少し行った里に住んでいるので」
「おや、まあ…」
 すると、狐の顔色は、みるみるうちに暗くなっていきました。
 髭が垂れ、ひくひくと匂いをかいでいた鼻も動きを止め、狐は何かを誤魔化すように、軽く耳の後ろを掻きました。
 どうしたのだろう、ひょっとして、何か失礼なことを言ってしまったかしらと花園が少し困っていると、狐は、申し訳なさそうな風に話し始めました。
「あの里ですがね、花園さん、あの里には、もう人間は住んでいないのですよ」
「なんですって」
「あの里はね、そんなに大きな集まりではなかったのですが、だいぶん前に、山のてっぺんからどどうと、岩や泥のたくさんが降って来たことがありましてね。それ以来、あそこには誰もいないのですよ」
「そんな、馬鹿な」
「なんとも残念ですが、僕はまだ耄碌していないつもりです」
 項垂れることなく、狐は花園を見つめました。
 花園は、狐の話を、繰り返して思い出しました。けれど、どれほど繰り返しても、花園には信じられませんでした。
 どんよりとした沈黙を、なんと受け取ったのか、狐は溜息をひとつついて、花園の中の匂いを嗅ぎました。
「どうしたのですか」
「仕方がありません。その娘さんとやらの埋まっているところまで、僕が案内してあげましょう」
「埋まっているなんて!」
「ええ。幸いにも、あなたには、まだ人間の雌の匂いがついています。さあどうぞ、こちらですよ」



 狐の後ろについて移動していた花園は、狐の向こうに、男がいるのを見つけました。
 当然、狐にも見えていたので、おや、と小さな声が聞こえました。
「おじさん」
「…花園やい。向こうの、里のことなんだが」
「その話でしたら、もう僕が聞かして差し上げましたよ」
 花園よりも先に、狐は男に向かって言いました。
「僕は、花園さんを娘さんとやらのところまで案内する役目を仰せ付かりましてね。ですから、あなたはもう帰って結構ですよ」
「ほほう、なかなか言う奴だな、狐よ。だが、俺はこいつの方術を解くという仕事があるので、生憎だがお前さんにこいつをすっかり預けるわけにはいかんのだ」
「そうですか。では、ついででよろしければ、あなたのことも案内して差し上げましょう」
「おう」
 ギロリと男をひと睨みして、狐は再び歩き始めました。
 男が後を追い、花園も続いて、一人と一匹と一群は、ピリピリとした空気の中を、ぞろぞろと行進していきました。
 里につくまでの間、誰もがじぃっと黙っていましたので、花園は少し困っていましたが、狐にも男にも相談してはいけないような気がして、やっぱり黙っていました。
 四半刻ほど進んだ頃、ようやく里が見えてきました。
 里は、全て土に埋もれていました。
「…」
「ほうら、言った通りでしょう、花園さん。さて、ちょっとばかりここで待っていてください。娘さんのいる場所を、今から探して参りますから」
 狐は、たんっと地面を蹴って、軽やかに土の山の影に消えて行きました。
 花園と男は、ぽつんと取り残されていました。
「花園やい」
「なんですか、おじさん」
「……分かったんだろう。ここには、もう、その娘はいないのだ」
「いない…」
「どうする」
「どうする…」
「娘の亡骸を見たいか」
「亡骸…」
「狐に言わないか。何も見ずに、元の場所に帰りたいとは思わんか」
 男は、花園を見つめて言いました。心配そうに、太い眉の尻を下げていました。
 花園は、女の子にもう一度会えるのだと思ってここまで来たことを思い出しました。
 花園は、考えました。
 まず、とても悲しいと感じました。女の子の姿を見たら、きっともっと悲しくなるのだろうと思いました。
 花園は、考えました。
 それから、悲しいよりももっとたくさん、寂しいと感じました。
 女の子と、二度と会えない。
 女の子の姿を、二度と見られない。
 もう一度会いに来たのに、もう二度と会えないことは寂しいと思いました。
 花園は、もう一度思い出してみました。
 綺麗ねえと、嬉しそうに笑っていた、月に青白い女の子の姿。花の色のように、鮮やかな。
「花園さん。娘さんを、見つけましたよ」
 足音も小さく、狐が戻ってきていました。ぱたりと揺れた長い尻尾と、くしゃみをしそうな顔は、お揃いに、土で汚れていました。
 花園は、もう一度考えました。
 男は、花園を見ていました。
 狐は、男を胡散臭そうに眺めました。
 花園は、考えました。
 考えて、考えて、考えて……、お日様が山の反対側で真っ赤に燃え始めたとき、ようやく言いました。
「狐さん」
「なんですか、花園さん」
「私を娘さんのところまで、案内してくれますか」
 狐はくるりと尻尾を振って、
「元より」
 狐は小さく笑うと、今度はゆっくりと、ぺたぺたと歩いて行きました。
 花園が続きました。
 男も続きました。
 一匹と、一群と、一人は、もう誰もいない人里の奥へ進んでいきました。



 ここです、と狐が鼻面で示したのは、大きな瓦礫の山でした。
「……」
「狐、娘とやらはどこなのだ」
「莫迦ですねあなた、この下ですよ」
 狐と男はしばらく睨み合っていましたが、狐に着物の裾を噛み千切られて、男は渋々と動きました。背負っていた荷物の中からなにやら銀色の道具を取り出して、それを使って瓦礫を除け始めました。
 まだ朱色の残る空に、お月様が段々と顔を覗かせます。
 そして、朝と夜の光が混じった瓦礫の山から、女の子が、姿を現しました。
 女の子の瞼は、とても重そうでした。
「娘さん…」
花園は、小さな声で呟きました。
もう耳の聞こえない女の子は、ぴくりとも動きませんでした。
どれだけ呼んでも、女の子が花園を綺麗だと褒めることは、もうないのでしょう。
「おじさん」
「………なんだ、花園やい」
「お願いがあるのです」
「なんだ?」
「娘さんのために、お墓を作って欲しいのです」
「墓か。分かった」
 玉の汗を浮かべて、男は頷いてくれました。
 項垂れることはなく、花園はありがとうと言いました。



 夜になりました。
 お月様も、お星様も、いつものように綺麗でした。
 里の外れに小さな丘のような場所が見つかったので、女の子のお墓は、そこに作られることになりました。
 男は、女の子を埋葬した地面の上に、瓦礫の中で一番大きかった塊を置きました。
 できあがった小さなお墓を、狐はじっと見つめていました。くしゃみをすることも、尻尾を揺らすことも、耳や身体を掻くこともせずに、ただ、薄汚れた毛並みのままで、柔らかい土に座っていました。
 花園も、お墓の周りを取り囲んで黙っていました。
 男は道具を片付けると、お墓に向かって手を合わせて目を瞑っていました。
 しばらくは、ひょうひょうと通り過ぎていく風だけが、啼き声を上げていました。
「さて。それでは」
 男が顔を上げたとき、狐は立ち上がって言いました。
「僕はそろそろ、お暇させていただきます。この場所にも娘さんにも、僕は思い入れがありませんので」
「狐さん」
「なんですか」
「ありがとうございました。あなたがいなかったら、私達は娘さんを探し出せたか分かりません」
「なんのなんの。あなたのためでしたら」
「それでも、ありがとうございます」
「花園さんはご存じないかもしれませんがね」
 狐は花園に静かに近づくと、お辞儀をするように、一輪の蕾に湿った鼻で触りました。
「あなたは、僕達の間ではとても有名なのですよ。僕達を、草を食う者も肉を食う者も、分け隔てもなく受け入れて、守ってくれる、温かい場所だとね」
 狐は、立ち上がった男の足元にも毛並みを擦りつけると、
「それでは、ご機嫌よう」
 くるりと後ろを向いて、たんたんと走って行きました。
「なあ、花園やい。お前さんは、どうするんだい」
 男は言いました。
「どういうことですか」
 花園は訊ねました。男が、花園にかけた方術を今すぐにでも解いてしまうと思っていたからです。
 男は静かな目で、花園を見下ろしていました。
「お前さんは、どこか行きたいところがあるか。花を咲かせていたい場所があるか。あるのなら、そこまで一緒に行ってやるが」
「いいえ、お構いなく。ありがとう、おじさん」
「…………と、言うと」
「私は、ここで咲いていたいのです。娘さんのお墓で、娘さんのすぐ傍で、咲いていたいのです」
「娘は、もういないぞ」
「それでも、ここにいたいのです」
 花園は、言いました、
 花園はお墓を囲んで横たわると、そろり、と根を下ろしました。娘さんに触れることはないように、間違って、起こしてしまうことがないように、それだけには、気をつけて。



* ******* ******* *

 今でもその丘には、花園が咲き乱れています。
 思いつく限りの色が溢れた、絵のように鮮やかな、とても美しい花園です。
 虫が、鳥が、獣が訪れては、花園の穏やかさに目を細め、ゆったりとくつろいでいます。
 そんな動物達を受け入れては、花園も嬉しくなって笑うのです。
 生きるものの足音や息遣いは、風に運ばれて来なくとも、花園のそこかしこを満たしています。
 もう今はいない、大切な友達の残り香が、花園に柔らかく沁み込んでいます。
 地平線まで届けとばかりに、花園は誇らしげに揺れています。
 どこまでも、どこまでも、揺れています。
 これは、一面の花園のお話です。

* ******* ******* *



「……で、おしまいだ」
「素敵な話だねー……!」
「ふぅん。まあ、悪くはないんじゃないの」
 男が語り終えると、二人の子どものうち少女は目を丸めて感心し、少年はあからさまに興味がなさそうに余所見をしていた。
 なんだか複雑な気持ちで、襤褸同然の着物を纏った貧相な男が疲れたように溜息をついた。
 事の発端は、裏の畑の世話から戻ると、村はずれにあるはずのこの自宅に二人の子どもが忍び込んでいたという所だ。
 いかにも活発そうな、大きな目の少女。
 どこか達観したような空気を持つ少年。
 見られて困るものはないが、壁にぎっしりと詰め込んである書物が崩れては危ないので、大人の役割を果たすべく叱ろうとした。
 のだが、叱責に慣れていない態度の男など屁でもないとでもいうように、少女の方があれなぁにそれなぁにこれ読んでとせがんできたのだ。
 あまりの煩さに閉口して、仕方なく相手をしてやったのだが……。
(叱ろうと思ったんだけどな、俺は……)
 溜息のついでにずり落ちた鼻眼鏡が、複雑さを憂愁に変えようとしていた。
 気分を切り替えるためにも、男は大きくぱんぱんと手を叩いた。いつまでもこんなことをしているには時間は貴重に過ぎる。
「さ、お話はこれで終わりだ。もう夕方だから、ガキはそろそろ家に帰れ」
「えぇ〜」
「ほら、行った行った」
 少年ともども、背中を押して戸外へ出してやった。
 春の空気は程よく暖かさに包まれていて、とても居心地がいい。
 黴と墨の匂いしかない書物に見下ろされるよりもずっとマシだろう。
 そう思うと、無意識に顔が緩んでしまった。
 男がだらしない顔を慌てて引き締めると、少年は無駄に清々とした表情でそっぽを向き、少女はまだ物足りなさを訴えるように頬を膨らませていた。
「とりあえず、それなりの暇潰しにはなりました。どうも」
「挑発的な態度は慎め、少年」
「おじさん、またお話読んでくれる?」
「読んでやるから、今日はとっとと帰れ。俺にもやることのひとつやふたつはあるんだ」
 やがて、少年と少女は手を取り合って家路へとついた。道中、少女が何度も振り返って手を振っていたので、男はなかなか家に入れずにいたが。
「んー……」
 久々に長時間続けて使ったので、少々喉が痛かった。薬草がないかと家の中を見渡すと、いつもの通り、眺めているだけで飽きそうなほどどっさりと本が並んでいる。
 床にも何冊が放り出されていて、とても薬を探すどころの話ではなかった。そろそろ片付けたほうが良いかと、男は本棚の隙間にぐいぐいと本を押し込み始める。
 黙々とこなされる作業。激励のように、開いた窓から春のそよ風が吹き込んだ。
 静かに時間が過ぎていき、やがて薬箱を箪笥の中に見つけて男が安堵していると、床に置いてあった最後の本が捲れて音を立てた。
 先ほどまで子供たちに読んでいた本。
 表題は、《花筐》。
 ふと、気紛れのように風が止んだ。ややあって、頁も止まる。
 そこに、一枚の栞が挟んであった。
 とうにくたくたになった、下手な押し花の栞。
 空を行く白鷺に似た、どこか儚い花弁。
『素敵な話ね』
『悪くはないんじゃないの』
 無邪気で、真っ直ぐな言葉を思い出す。
 男は本を拾い上げ、栞を抜き取って翳した。
「……だとさ」
 淡く微笑むと、応えるように、花は、カサリと小さく揺れた。




2007.12/08