マンションネタである。 第一棟の一階の向かって左の部屋が101号室、右が102号室。そんな設定の、五階建てのマンションがこの東沿ハイツだ。 つまり、第六棟の三階の向かって右の部屋は606号室なわけで、俺の家が、ここ606号室なのはそういう意味で当然であり、だから俺がとある悩みを抱えていることも必然と言ってしまえばそうだった。別に両親は離婚していないし母親は自殺未遂じゃないし不思議な転校生を追いかけてビルのてっぺんの大きな扉をくぐって見習い勇者になったりはしていない。だが、確実に悩みはある。誰もと同じように、誰とも同じでない悩みを。 「……」 思い出してみて欲しい――もしくは知って欲しい。小学生が好むようなちゃちい怪談話に、こんなのがある。午後四時四四分四四秒に、学校の踊り場の(手洗いだったか? いや、用具室かもしれない)鏡を見ると、そこに何かが映る、という話。その何かというのは話し手によってまちまちで、未来の自分だったり怨霊だったり妖怪だったり虫だったりするのだがそこはどうでもいいので流す。 俺が注目を要請するのは、この怪談におけるキーアイテムが鏡であるという点だ。時間の指定は単に四が縁起の悪い数字だからだろう、それはどうでもいい。とにかく鏡。鏡だ。 三種の神器のひとつも八咫の鏡だし、卑弥呼が自らの神聖を保つべく使ったのも鏡だし他にも他にも、とにかく鏡というのは曰く付きの魔法の小道具なのである。自分や他人どころか(こういう言い方は俺の人格やストーリーに誤解を招くようで好きではないが)世界そのものさえ映すアイテム。そっち系の人達が喜び勇んで活用するのも分からんでもない。 で、俺が何を言いたいかと言うと――あるいは何を言いたくないかと言うと――いやいやむしろ、何を信じたくないかと言うと。 「……」 手にしているのは手鏡だ。何の変哲も無いどころか裏側に三才だった俺がクレヨンでガサガサ落書きした跡さえ残っているショボい手鏡。俺はそれを覗き込んむ。何故か? 答えは、明白だ。あまりにも。 「――よ」 手鏡に語りかける怪しい高校生男子約一名の視線の先の 「――こんにちは。また会えて嬉しいわ」 ―― 何故信じたくないのか? 儚げな笑顔の良く似合う可愛い女の子とデンパで会話できるのがそんなに嬉しいか? それとも気付かないのか? 読み流してくれやがったのか? よし、じゃあありったけの悪意を込めて俺は真実の復習と披露を行おう。 俺は606号室の部屋の片隅にいるという真実。これは良いな? じゃあ次。 「 「ああ、うん。それは大丈夫。何とかなったよ」 「そう……良かった」 心底安堵したように日月は溜め息をついた。 「どうしようかと思っていたの。朋里君があんなに思いつめた顔してたから、修復不可能なんじゃないかって」 「縁起でもないこと言うなよな!」 「ふふ。わざわざ報告してくれてありがとう。安心できたわ。……だから朋果君」 「何?」 問いつつ、続く言葉の九割方を予測している自分がいた。日月の顔がそんな顔だったからだ。そんな顔というのは、アレだ。本当は笑いたくないのに笑う、みたいな顔。それなら、もう、予測するまでも無かった。 「もう私に会うのは、やめておいた方が良いわよ」 「……」 ――鏡の向こうは、正反対ではないから。正しく反射した対の世界ではないから、魂が引き摺られてしまうことがあるそうだ。こうして鏡を通してとはいえ立派に対面を果たしている俺達の間には、此方と彼方でも、魂の通い路のようなものができつつある、らしい。そしてそれは、とても危険なことなのだと、そう聞いた。 日月を――鏡の向こうを知ったのは、偶然。 日月と仲良くなったのは、奇跡。 日月と仲良くなりたいと思ったのは――。 「……でも」 「ね。そうして」 やんわりと俺の反論を包んで、日月は笑った。笑って、見せた。 「……」 気に食わなかった。 気に食わない、けれど。 「分かった。……もう、会わない」 「……良かった」 寂く、そう呟いた。 そうするしかなかった。俺は霊媒師でなければ超人でもない。二ヶ月前のあの時の俺にできることなんて何も無かったのだ。 勿論、今の俺にも。 ……日月は、 「……」 日月の言葉に従って、あの手鏡は捨てたけれど。日月と話したその部屋で、俺はたまに夢を見る。 青白い少女が一人、部屋の隅で泣いている夢を。 俺は何を信じたくなかったんだろう? 2006.09.01 |