――あの日、雨が降った。 沈んだ太陽。鎮んだ部屋。 天を閉ざす雨音。雷鳴が轟く。 開いた扉の向こうにその景色を見とめて、男は半瞬立ち竦んだ。 娘の不在が成す静寂に、彼はまだ慣れずにいる。 男を見上げる小さな子供は、鏡のように澄んだ面持ちを崩さない。小首を傾げる様子 は、邪気の無い小鳥にも似ていた。 その子供は宿無しだという。 保護者もおらず、荷物らしい荷物といえば、雨除けか泥除けに使われているらしい絨毯の ような一枚の布だけ。 この辺りには他に人の住む屋敷はない。雨と泥を盛大に被ったその子供を放っておく 気にはなれず、男は子供を屋敷の内に招いた。 「食事は? お腹が減っているだろう」 「ううん、いらない。ねぇ、暖炉に火を入れていい?」 「構わないよ。薪ならここだ」 「ありがとう。外はとっても寒かったから」 「ああ、けれどその前にお湯を浴びてきなさい。暖まる」 「ありがとう。ねぇ、おじさんはここに住んでいる人?」 「そうだよ」 「一人で住んでるの?」 「ああ」 「どうして?」 「川が溢れてね。昔はこの家も長閑な町の中にあったんだが、その折に残ったのはこの家 だけでね」 「ふうん」 「そして私は唯一、安全な場所からわざわざ戻ってきた物好きなんだ。まるで幽霊みたいだろう?」 「そんなことないよ。おじさんは優しいもの」 「……ありがとう」 嬉しそうに弾む口調とは裏腹に、その子供の表情は終始、眉一本すら動かなかった。 男は訝しがったが、深く追求はしなかった。 都会ならいざ知らず、ここは既に人の気配が薄まって久しい地だ。自分が例え化生に かどわかされていようとも、さして不思議とは思えなかった。 「君は? どこに住んでいるんだい?」 「どこにも住んでないよ。旅をしているんだもの」 「旅?」 「雨を追いかけてるの。でも、今日は追いついちゃったから一休み。それで、この雨がどこ かに行ったら、またそれを追いかけるんだよ」 「どうしてそんなことを?」 「教えてもらったから」 「何を? いや、誰から?」 「会いに行く方法を。川で会った人から」 「他にも人が……? いや、それで君は、誰に会いたいんだい?」 「とーっても大事な人。その人が雨の中にいるってことも教えてもらったんだ」 「よく分からないな」 「この雨は涙なんだよ。哀しい気持ちが雲になって空を覆って、そこから雨が降ってくるの。 その人、きっと泣いてると思うから、雨をたどっていけば会えるんだ」 着替えを用意してやり、簡単な身繕いを済ませると、子供はそれなりに見られるよう になった。 その頃には、時計の針はとっくに夜中を示しており、男は子供を寝室へと案内した。 それほど大きくはない屋敷は小さくもなく、男は小さな手を引いて階段を上った。暖 かい柔らかさに何かを満たされながら、彼は目的の部屋へと向かった。 「……会いたい人に……」 「本当はやっちゃいけないことなんだけど、ウラミチなんだって言ってた。 ウラミチっていうのはあんまり使っちゃいけないんだけど、でもその人にね、どうしても 言いたいことがあるから。特別に許してもらったの」 「言いたいこと?」 「うん。雨が止んだら教えてあげるね。それまではナイショっ。大事なことだから、 最後まで取っておくのっ」 「そうか」 「おじさんは会いたい人、いるの?」 扉の前で、男の足は止めた。 ぶら下がったプレートに彫られた、娘の名前に目を奪われて。 手を繋いでいた子供もまた、彼につられて立ち止まった。 「この部屋にはね」 「?」 「私の娘がいたんだ」 「今はどこにいるの?」 「もういない。洪水があった日に、川に呑まれてしまった」 「その人に会いたいの?」 「ああ」 「言いたい言葉があるの?」 「あるな」 「なんて?」 男は扉を開けた。 「“おかえり”――と」 沈んだ太陽。鎮んだ部屋。 天を閉ざす雨音。雷鳴が轟く。 開いた扉の向こうにその景色を見とめて、男は半瞬立ち竦んだ。 娘の不在が成す静寂に、彼はまだ慣れずにいる。 男を見上げる小さな子供は、鏡のように澄んだ面持ちを崩さない。小首を傾げる様子 は、邪気の無い小鳥にも似ていた。 洪水が起きたとき、男と男の娘は既に隣町に避難していた。川からは十分に離れ、そ こにいる限りは安全だった。だが、娘は気付き、ひとり町へと戻ってしまったのだ。 避難することもできず、自分たちの町の冷たい土の下で震えているであろう、病死し た母の元へ。 娘の暴挙を予想だにしていなかった男は、全てが手遅れになってからようやく娘の行 方に思い至った。 娘の遺体は、ついに見つけてやることができなかった。 「じゃあ、伝えてあげるっ」 口に出さぬ懺悔から、耳に馴染み始めた声に引き戻された。 傍らを見下ろせば、やはり感動を欠如した幼い顔とぶっつかった。 「いつかその子を見つけたら、おじさんがおかえりって言ってたって伝えてあげる よ。おじさんが伝えたいって思ってるなら、その子も聞きたがってるはずなんだか ら」 「いや、だから……」 「あ、でも覚えてたらね。忘れちゃうかもなんだけど」 許可も待たずに勝手にベッドによじ登り、子供は振り返った。実はね、と困ったよう に首を傾げる姿に、男は奇妙な既視感を覚えた。 「会いたい人の名前とか顔とかも、ほんとは覚えてないんだ」 ――既視感の次に訪れたのは何だったろうか。 ――埋め尽くされた胸の中に浮かんだのは何だったろうか。 男はただ立ち尽くし、シーツを弄繰り回して遊ぶ子供の平坦な幼さを眺めていた。 「でもいいのっ。雨を追っていけばいつか会えるって分かってるから」 「……雨」 「そうっ。だから、おじさんの会いたい人にも伝えてあげるね。だって、雨をたどれば会える んだから――」 雨を追えばいずれは会える。 遠い夢を見るように繰り返す子供の一途さに、悲しみにも似た何かを覚えた。 「? おじさん?」 「……逢えるよ」 かなしいそのたましいに、ただひとこと。 「だから」 せめて夢の中でだけでも、やさしいしあわせが訪れるようにと。 「――おやすみ」 小さな頭をそっと撫でて、男は告げるように呟いた。 *** *** 翌日、子供は屋敷を去った。雨が止んだのだ。 一生涯降り続いていたかのような大雨は、無数の足跡だけを残して南へ移動したようだ。 去り際に、男と子供は名前を教え合った。 いい名前だね、と子供は言った。 そちらこそ、と男も笑った。 「そういえば、君が伝えたいという言葉っていうのはなんだったんだい?」 「あのね、おじさんとおんなじなの」 嬉しそうに子供は言う。 「“おかえり”って言ってあげるんだ」 どこまでも透き通った二つの水溜りに、ふたつの影が移り込んだ。 ひとつには男の姿が。 もうひとつには、空を行く雲が。 「――……」 「じゃあねおじさん。いろいろとありがとうっ。ばいばいっ」 元気良く言い置いて、子供は走り去っていった。僅かに残る雨雲の切れ端を追って。 久しぶりの笑顔を見送る男は、小さく唇を動かした。 何より大切なその名を、さよならに乗せて。 2006.05/17 |